九州山地の熊本・宮崎県境の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
熊本・宮崎両県境の向坂(むこざか)山(1685m)付近に源を発し,九州山地と阿蘇南外輪山のすそ野からの水を集め,熊本県のほぼ中央部を東西に横断して有明海に注ぐ川。幹川流路延長76km,全流域面積約1100km2。水源付近は河床に露出する岩石が清流に映え,緑色を呈するところからこの名があるといわれる。上流約7kmの間は原生林の茂る峡谷で緑仙峡と呼ばれる景勝地。山都町の旧矢部町に入ると平家の落人伝説を秘め紅葉が美しい内大臣川を合わせ,矢部四十八滝,五老ヶ滝など多くの滝をかける。上・中流には1847年(弘化4)に架けられた霊台橋(重要文化財)や55年(安政2)に布田(ふた)保之助がオランダの土木技術にもとづいて完成した通水石橋の通潤橋(重要文化財)などの眼鏡橋が多い。中流域の砥用(ともち)町(現,美里町)では1971年緑川総合開発の一環として多目的の緑川ダム(総貯水量4600万m3)が建設されている。中・下流域の甲佐盆地では17世紀の初め加藤清正が治水と灌漑のため,鵜ノ瀬,麻生原,糸田の各堰を築き,また甲佐町を貫流する大井手川を開削した。現在,大井手川の緑川からの取水口付近には,アユのやな場が設けられ観光地になっている。下流の熊本平野に出ると御船(みふね)川,浜戸川,加勢川などを合わせ川幅も広く水量も豊かになり,上杉,丹生宮(にゆうみや),六間などの堰が平野を潤している。加藤清正が水害対策として堀川水路を開削したのをはじめ,細川藩時代には嘉永,天明などの新川が造られた。加勢川下流の川尻は中世からの古い河港で,近世には御船手衆と呼ばれた水軍が置かれ,流域の年貢米の集積地として栄えた。
執筆者:岩本 政教
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熊本・宮崎県境の向坂山(むこうざかやま)付近に源を発し、熊本県中部を西流し、宇土半島(うとはんとう)基部で島原湾に注ぐ一級河川。延長約76キロメートル、流域面積約1100平方キロメートルの県下第二の川。緑川断層線に沿って西流しているため、緑川ダム建設(1971)以前は中流域の井戸江峡までは急流、滝、峡谷が連なっていたといわれ、いまも矢部四十八滝、内大臣(ないだいじん)峡、緑仙峡などは景勝地として多くの観光客を集めてはいるが、緑川ダム建設後は著しくその景観を変えてしまっている。山地から台地に流れ出る地点の甲佐町上豊内(かみとようち)に西日本最初の工場制機械製糸工場跡がある。また、水に恵まれない山裾(やますそ)の台地にも巧みな水利施設の考案によって配水され、新田の開発がなされてきた。緑川ダム湖は、下流域の水量調整だけでなく、宇土半島、八代(やつしろ)平野北部にも農業用水の供給を行っている。
[山口守人]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…同寺は88年(正応1)官寺の許可を得,公家武家の祈禱所として繁栄した。義尹の功業としては,荒野開発などをはじめとする大土木工事が注目されるが,とくに,渡舟の沈没により毎年多数の人命が奪われる肥後第一の急流緑川に架橋を試み,河尻大渡の地に,いわゆる大渡橋を竣工させるなどの偉業は,特筆すべきものである。後世この門派を法王派,または寒巌派と呼ぶ。…
※「緑川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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