日本大百科全書(ニッポニカ) 「慕容部」の意味・わかりやすい解説
慕容部
ぼようぶ
古代北アジアの遊牧民族である鮮卑(せんぴ)の一部族。中国、五胡(ごこ)十六国時代に、前燕(ぜんえん)、後燕(こうえん)、西燕、および南燕などの王朝を建てた。慕容の由来については、彼らが愛用した歩揺冠の音訛(おんか)とする説、「二儀の徳を慕い、三光の容を継ぐ」という意味をもつとする説などが史書にみえるが、むしろ、モンゴル語で富を意味するBayanの音訳とみるほうが妥当であろう。2世紀中ごろの鮮卑の大人(たいじん)(部族長)に慕容なる人名がみえるが、慕容部は遅くとも3世紀前期には、白狼(はくろう)水(大凌河(たいりょうが))流域から中国の遼西(りょうせい)(河北省盧竜(ろりゅう)県付近)地方に移住し、魏(ぎ)や西晋(せいしん)のために辺境防衛や対外遠征に従事してその部族長は単于(ぜんう)、左賢王(さけんおう)などの称号を授けられていた。しかし慕容部が強盛になるのは4世紀前期の慕容廆(かい)(269―333)の時代からで、その孫慕容儁(しゅん)(319―360)は河北に進出して鄴(ぎょう)に遷都し、華北東部を領有した。なお、4世紀から7世紀にかけて青海省の青海地方を支配していた吐谷渾(とよくこん)国の開祖吐谷渾は、慕容廆の庶兄といわれている。
[關尾史郎]
『『東胡民族考』(『白鳥庫吉全集4』所収・1970・岩波書店)』▽『谷川道雄著『隋唐帝国形成史論』(1971・筑摩書房)』