慶光天皇(読み)きょうこうてんのう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「慶光天皇」の意味・わかりやすい解説

慶光天皇
きょうこうてんのう
(1733―1794)

江戸中期の皇族。閑院宮直仁(かんいんのみやなおひと)親王の子。名は典仁(すけひと)、自在王院と号した。1742年(寛保2)中御門(なかみかど)天皇猶子(ゆうし)となり、翌年親王宣下(しんのうせんげ)を受け閑院宮家を相続した。80年(安永9)第6王子(光格(こうかく)天皇)が即位したのに伴い太上(だじょう)天皇の尊号を希望して幕府に拒否され、いわゆる尊号一件を引き起こした。1884年(明治17)中山忠能(ただやす)の発議により慶光天皇の尊号が追謚(ついし)された。

[佐々悦久]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「慶光天皇」の解説

慶光天皇 きょうこうてんのう

1733-1794 江戸時代中期の追尊天皇
生前,子の光格天皇太上天皇の尊号を贈ろうとしたが,幕府に拒否され(尊号一件),九十年忌にあたる明治17年明治天皇によって追尊された。墓所は廬山寺陵(ろざんじのみささぎ)(京都市上京区)。⇒典仁(すけひと)親王

慶光天皇 けいこうてんのう

きょうこうてんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「慶光天皇」の意味・わかりやすい解説

慶光天皇
きょうこうてんのう

典仁親王」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の慶光天皇の言及

【上皇】より

…大宝令制定以後は,譲位した天皇は自動的に太上天皇と称され,持統より平城まで7人の上皇が出現したが,823年(弘仁14)嵯峨天皇が譲位に当たり太上天皇の尊号を辞退したため,淳和天皇が詔して尊号をたてまつり,以後これが常例となり,譲位後数日ないし十数日の間に新帝から尊号をたてまつる詔を発する儀制が成立し,嵯峨より江戸末期の光格まで,北朝の上皇を含めて53人の上皇が尊号をうけた。そのほか,皇位につかずして太上天皇の尊号をうけた例に,後堀河天皇の父守貞親王(後高倉院)と後花園天皇の父貞成親王(後崇光院)があり,没後に尊号を追贈された例に,後陽成天皇の父誠仁親王(陽光院)と光格天皇の父典仁親王(慶光天皇)がある。太上天皇の異称には,上記の略称のほか,〈おりゐのみかど〉〈もとのうへ〉〈むなしきふね〉などの和風のものもあり,みな譲位の意による称で,〈むなしきふね〉は中国に出典のある〈虚舟〉の和訓である。…

【典仁親王】より

…しかし幕府では老中松平定信が名分論をとって終始賛成しなかったため,この議は遂に成らず,93年このことに関与した議奏中山愛親,武家伝奏正親町公明が幕府から処罰されて終結をみた。いわゆる尊号一件であるが,のち1884年に至り,親王は明治天皇より太上天皇の尊号と慶光(きようこう)天皇の諡号(しごう)を追贈された。【武部 敏夫】。…

※「慶光天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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