光格天皇(読み)こうかくてんのう

朝日日本歴史人物事典の解説

光格天皇

没年:天保11.11.19(1840.12.12)
生年:明和8.8.15(1771.9.23)
江戸後期の天皇安永8(1779)~文化14(1817)年在位。閑院宮典仁親王の第6皇子,祐宮。母は岩室磐代。諱は師仁,のちに兼仁。聖護院宮忠誉法親王の法弟となるが,安永8年後桃園天皇崩御の際,同天皇の養子となり同年11月践祚,翌年12月即位皇后は後桃園天皇皇女,欣子内親王。天明8(1788)年禁裏炎上により聖護院に遷幸。朝儀再興を払った天皇は幕府に働きかけ古制を取り入れ再建。一方,父典仁親王の地位が三公(大臣)より低いことを憂い,幕府に対し父親王への太上天皇の尊号宣下を願い出,幕府の反対に遭い断念するという尊号事件が起こった。朝廷の自立志向と対する幕府の朝廷統制強化のせめぎあいのなか,武家伝奏,議奏の処分という結末をみたが,その後の尊王思想に影響を与え,在位期に朝廷内の復古派勢力は着実に拡大した。文化14年譲位。中絶していた諡号再興により光格と追諡された。陵墓は京都泉涌寺内の後月輪陵。<参考文献>高埜利彦「後期幕藩制と天皇」(『講座前近代の天皇』2巻)

(母利美和)

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367日誕生日大事典の解説

光格天皇 (こうかくてんのう)

生年月日:1771年8月15日
江戸時代後期の第119代の天皇
1840年

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

光格天皇 こうかくてんのう

1771-1840 江戸時代中期-後期,第119代天皇。在位1780*-1817。
明和8年8月15日生まれ。閑院宮典仁(かんいんのみや-すけひと)親王の第6王子。母は大江磐代(いわしろ)。皇子のない後桃園天皇が皇嗣をきめず急逝したため,9歳で皇位をついだ。在位38年,譲位後は院政を23年間おこなう。寛政元年父典仁へ太上天皇の尊号をおくろうとして,老中松平定信に阻止された(尊号一件)。和歌や音楽をよくした。天保(てんぽう)11年11月19日死去。70歳。死後,村上天皇のとき以来875年ぶりに天皇号がおくられた(63代から118代は院号)。墓所は後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)(京都市東山区)。幼称は祐(さちの)宮。諱(いみな)は師仁(もろひと),兼仁(ともひと)。歌集に「光格天皇御詠草」,日記に「光格院日記案」。
【格言など】よろづ民やすくたのしむときつ風とよあし原の国さかえつつ(内裏和歌御会)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

光格天皇
こうかくてんのう
(1771―1840)

第119代とされる天皇(在位1780~1817)。東山(ひがしやま)天皇の孫の閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王の第6王子。名は兼仁(ともひと)、幼称は祐宮(さちのみや)。後桃園(ごももぞの)天皇に皇嗣(こうし)がないため養子に迎えられ、10歳で即位。在位中の1788年(天明8)1月、京都大火により皇居炎上の厄にあう。また翌年(寛政1)には生父典仁親王に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとして幕府に承認を求めたが拒否され、ついに実現せず(尊号一件)、一時、朝幕関係が緊張した。陵墓は京都市東山区後月輪(のちのつきのわ)陵。

[竹内 誠]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

光格天皇
こうかくてんのう

[生]明和8(1771).8.15. 京都
[没]天保11(1840).11.19. 京都
第 119代の天皇 (在位 1780~1817) 。名は兼仁 (ともひと) 。幼称は祐宮。閑院宮典仁 (すけひと) 親王の第6王子,東山天皇の曾孫にあたる。母は成子 (ふさこ) 内親王。安永9 (80) 年 10歳で即位。天明8 (88) 年父典仁親王に太上天皇の尊号を奉上しようとしたが,老中松平定信の反対にあってならず (→尊号一件 ) ,1884年になって明治天皇により慶光 (きょうこう) 天皇の尊号が贈られた。陵墓は京都市東山区今熊野泉山町の後月輪陵。

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精選版 日本国語大辞典の解説

こうかく‐てんのう クヮウカクテンワウ【光格天皇】

第一一九代天皇。閑院宮典仁(すけひと)親王の第六子。名は兼仁(ともひと)。安永八年(一七七九)、後桃園天皇の養子として一〇歳で即位。文化一四年(一八一七)譲位。父典仁親王に太上(だいじょう)天皇の尊号をおくろうとして、江戸幕府の老中松平定信にはばまれたことは、尊号事件として知られる。明和八~天保一一年(一七七一‐一八四〇

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世界大百科事典 第2版の解説

こうかくてんのう【光格天皇】

1771‐1840(明和8‐天保11)
第119代に数えられる天皇。在位1780‐1817年。閑院宮典仁親王の第6皇子。名は兼仁(ともひと)。1779年(安永8)後桃園天皇のに際し後嗣に迎えられ,践祚。皇后は同天皇の皇女欣子内親王。没後,久しく中絶していた諡号(しごう)奉上が復活して,光格天皇と諡(おくりな)された。天皇は経学を好み,博学能文で詩作に長じ,音楽のたしなみも深く,内裏造進のを賞して五言古詩を将軍徳川家斉に贈っている。在位の間とくに旧儀の再興に意を用い,石清水社,賀茂社の臨時祭をはじめ儀式公事の再興をみたものも少なくない。

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世界大百科事典内の光格天皇の言及

【閑院宮】より

…その間載仁親王に至る6代は世襲親王家として親王宣下を受け,また愛仁親王までの5代は実系をもって相続したが,愛仁親王に後嗣がなく,1872年(明治5)勅旨により載仁親王が伏見宮より入って第6代を継承した。なお光格天皇は第2代典仁親王の王子で,天皇は親王に太上天皇の尊号を宣下しようとしたが,幕府の反対により実現せず,1884年に至り,尊号と慶光(きようこう)天皇の諡号(しごう)が追贈せられた。【武部 敏夫】。…

【尊号一件】より

…江戸後期,光格天皇がその父である閑院宮典仁親王に太上天皇(譲位した後の天皇)の尊号を贈ろうとして幕府に拒否された事件。1789年(寛政1)天皇は,前大納言中山愛親(なるちか)に命じて先例を調べさせ,承久~文安年間(鎌倉・室町時代)に2例あることを根拠として,所司代を通じて尊号宣下の承認を幕府に求めた。…

※「光格天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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