光格天皇(読み)コウカクテンノウ

デジタル大辞泉 「光格天皇」の意味・読み・例文・類語

こうかく‐てんのう〔クワウカクテンワウ〕【光格天皇】

[1771~1840]第119代天皇。在位1780~1817。閑院宮典仁すけひと親王の第6皇子。名は兼仁ともひと後桃園天皇の養子となって即位。父典仁親王太上天皇の尊号を贈ろうとして、老中松平定信に拒まれた(尊号事件)。

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精選版 日本国語大辞典 「光格天皇」の意味・読み・例文・類語

こうかく‐てんのうクヮウカクテンワウ【光格天皇】

  1. 第一一九代天皇。閑院宮典仁(すけひと)親王の第六子。名は兼仁(ともひと)。安永八年(一七七九)、後桃園天皇の養子として一〇歳で即位。文化一四年(一八一七譲位。父典仁親王に太上(だいじょう)天皇の尊号をおくろうとして、江戸幕府の老中松平定信にはばまれたことは、尊号事件として知られる。明和八~天保一一年(一七七一‐一八四〇

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改訂新版 世界大百科事典 「光格天皇」の意味・わかりやすい解説

光格天皇 (こうかくてんのう)
生没年:1771-1840(明和8-天保11)

第119代に数えられる天皇。在位1780-1817年。閑院宮典仁親王の第6皇子。名は兼仁(ともひと)。1779年(安永8)後桃園天皇の死に際し後嗣に迎えられ,践祚。皇后は同天皇の皇女欣子内親王没後,久しく中絶していた諡号(しごう)奉上が復活して,光格天皇と諡(おくりな)された。天皇は経学を好み,博学能文で詩作に長じ,音楽のたしなみも深く,内裏造進の功を賞して五言古詩を将軍徳川家斉に贈っている。在位の間とくに旧儀の再興に意を用い,石清水社,賀茂社の臨時祭をはじめ儀式公事の再興をみたものも少なくない。朝幕間に緊張を起こした事件に〈尊号一件〉がある。すなわち天皇は89年(寛政1)後高倉院,後崇光院両太上天皇の先例により実父典仁親王に太上天皇の尊号を宣下しようとし,5年にわたる折衝にもかかわらず,幕府では老中松平定信が名分論をとって固く反対して,ついに断念せざるをえなかった。この事件は事にあずかった廷臣の処罰によって落着したが,その政治的波紋は長く尾をひき,後年尊王運動の一誘因となった。ちなみに1884年父親王に太上天皇の尊号と慶光天皇の諡号が追贈された。陵墓は京都後月輪陵
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朝日日本歴史人物事典 「光格天皇」の解説

光格天皇

没年:天保11.11.19(1840.12.12)
生年:明和8.8.15(1771.9.23)
江戸後期の天皇。安永8(1779)~文化14(1817)年在位。閑院宮典仁親王の第6皇子,祐宮。母は岩室磐代。諱は師仁,のちに兼仁。聖護院宮忠誉法親王の法弟となるが,安永8年後桃園天皇崩御の際,同天皇の養子となり同年11月践祚,翌年12月即位。皇后は後桃園天皇皇女,欣子内親王天明8(1788)年禁裏炎上により聖護院に遷幸。朝儀再興に意を払った天皇は幕府に働きかけ古制を取り入れ再建。一方,父典仁親王の地位が三公(大臣)より低いことを憂い,幕府に対し父親王への太上天皇の尊号宣下を願い出,幕府の反対に遭い断念するという尊号事件が起こった。朝廷の自立志向と対する幕府の朝廷統制強化のせめぎあいのなか,武家伝奏,議奏の処分という結末をみたが,その後の尊王思想に影響を与え,在位期に朝廷内の復古派勢力は着実に拡大した。文化14年譲位。中絶していた諡号再興により光格と追諡された。陵墓は京都泉涌寺内の後月輪陵。<参考文献>高埜利彦「後期幕藩制と天皇」(『講座前近代の天皇』2巻)

(母利美和)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「光格天皇」の意味・わかりやすい解説

光格天皇
こうかくてんのう
(1771―1840)

第119代とされる天皇(在位1780~1817)。東山(ひがしやま)天皇の孫の閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王の第6王子。名は兼仁(ともひと)、幼称は祐宮(さちのみや)。後桃園(ごももぞの)天皇に皇嗣(こうし)がないため養子に迎えられ、10歳で即位。在位中の1788年(天明8)1月、京都大火により皇居炎上の厄にあう。また翌年(寛政1)には生父典仁親王に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとして幕府に承認を求めたが拒否され、ついに実現せず(尊号一件)、一時、朝幕関係が緊張した。陵墓は京都市東山区後月輪(のちのつきのわ)陵。

[竹内 誠]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「光格天皇」の解説

光格天皇 こうかくてんのう

1771-1840 江戸時代中期-後期,第119代天皇。在位1780*-1817。
明和8年8月15日生まれ。閑院宮典仁(かんいんのみや-すけひと)親王の第6王子。母は大江磐代(いわしろ)。皇子のない後桃園天皇が皇嗣をきめず急逝したため,9歳で皇位をついだ。在位38年,譲位後は院政を23年間おこなう。寛政元年父典仁へ太上天皇の尊号をおくろうとして,老中松平定信に阻止された(尊号一件)。和歌や音楽をよくした。天保(てんぽう)11年11月19日死去。70歳。死後,村上天皇のとき以来875年ぶりに天皇号がおくられた(63代から118代は院号)。墓所は後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)(京都市東山区)。幼称は祐(さちの)宮。諱(いみな)は師仁(もろひと),兼仁(ともひと)。歌集に「光格天皇御詠草」,日記に「光格院日記案」。
【格言など】よろづ民やすくたのしむときつ風とよあし原の国さかえつつ(内裏和歌御会)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「光格天皇」の解説

光格天皇
こうかくてんのう

1771.8.15~1840.11.19

在位1779.11.25~1817.3.22

閑院宮典仁(すけひと)親王の第6王子。初名師仁(もろひと),のち兼仁(ともひと)。生母は大江磐代(おおえいわしろ)。1779年(安永8)後桃園天皇の死に際し養子に立てられ践祚。89年(寛政元)父典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして幕府に反対された尊号事件がおきる。1817年(文化14)皇太子(仁孝天皇)に譲位したが,院政を行う。強烈な君主意識で朝儀の再興に努める。没後に漢風諡号と天皇号とをくみあわせた諡(おくりな)が,950年ぶりに復活。中宮は後桃園天皇の皇女欣子(よしこ)内親王(新清和院)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「光格天皇」の意味・わかりやすい解説

光格天皇
こうかくてんのう

[生]明和8(1771).8.15. 京都
[没]天保11(1840).11.19. 京都
第 119代の天皇 (在位 1780~1817) 。名は兼仁 (ともひと) 。幼称は祐宮。閑院宮典仁 (すけひと) 親王の第6王子,東山天皇の曾孫にあたる。母は成子 (ふさこ) 内親王。安永9 (80) 年 10歳で即位。天明8 (88) 年父典仁親王に太上天皇の尊号を奉上しようとしたが,老中松平定信の反対にあってならず (→尊号一件 ) ,1884年になって明治天皇により慶光 (きょうこう) 天皇の尊号が贈られた。陵墓は京都市東山区今熊野泉山町の後月輪陵。

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367日誕生日大事典 「光格天皇」の解説

光格天皇 (こうかくてんのう)

生年月日:1771年8月15日
江戸時代後期の第119代の天皇
1840年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の光格天皇の言及

【閑院宮】より

…その間載仁親王に至る6代は世襲親王家として親王宣下を受け,また愛仁親王までの5代は実系をもって相続したが,愛仁親王に後嗣がなく,1872年(明治5)勅旨により載仁親王が伏見宮より入って第6代を継承した。なお光格天皇は第2代典仁親王の王子で,天皇は親王に太上天皇の尊号を宣下しようとしたが,幕府の反対により実現せず,1884年に至り,尊号と慶光(きようこう)天皇の諡号(しごう)が追贈せられた。【武部 敏夫】。…

【尊号一件】より

…江戸後期,光格天皇がその父である閑院宮典仁親王に太上天皇(譲位した後の天皇)の尊号を贈ろうとして幕府に拒否された事件。1789年(寛政1)天皇は,前大納言中山愛親(なるちか)に命じて先例を調べさせ,承久~文安年間(鎌倉・室町時代)に2例あることを根拠として,所司代を通じて尊号宣下の承認を幕府に求めた。…

※「光格天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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