第119代に数えられる天皇。在位1780-1817年。閑院宮典仁親王の第6皇子。名は兼仁(ともひと)。1779年(安永8)後桃園天皇の死に際し後嗣に迎えられ,践祚。皇后は同天皇の皇女欣子内親王。没後,久しく中絶していた諡号(しごう)奉上が復活して,光格天皇と諡(おくりな)された。天皇は経学を好み,博学能文で詩作に長じ,音楽のたしなみも深く,内裏造進の功を賞して五言古詩を将軍徳川家斉に贈っている。在位の間とくに旧儀の再興に意を用い,石清水社,賀茂社の臨時祭をはじめ儀式公事の再興をみたものも少なくない。朝幕間に緊張を起こした事件に〈尊号一件〉がある。すなわち天皇は89年(寛政1)後高倉院,後崇光院両太上天皇の先例により実父典仁親王に太上天皇の尊号を宣下しようとし,5年にわたる折衝にもかかわらず,幕府では老中松平定信が名分論をとって固く反対して,ついに断念せざるをえなかった。この事件は事にあずかった廷臣の処罰によって落着したが,その政治的波紋は長く尾をひき,後年尊王運動の一誘因となった。ちなみに1884年父親王に太上天皇の尊号と慶光天皇の諡号が追贈された。陵墓は京都後月輪陵。
執筆者:武部 敏夫
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(母利美和)
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第119代とされる天皇(在位1780~1817)。東山(ひがしやま)天皇の孫の閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王の第6王子。名は兼仁(ともひと)、幼称は祐宮(さちのみや)。後桃園(ごももぞの)天皇に皇嗣(こうし)がないため養子に迎えられ、10歳で即位。在位中の1788年(天明8)1月、京都大火により皇居炎上の厄にあう。また翌年(寛政1)には生父典仁親王に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとして幕府に承認を求めたが拒否され、ついに実現せず(尊号一件)、一時、朝幕関係が緊張した。陵墓は京都市東山区後月輪(のちのつきのわ)陵。
[竹内 誠]
1771.8.15~1840.11.19
在位1779.11.25~1817.3.22
閑院宮典仁(すけひと)親王の第6王子。初名師仁(もろひと),のち兼仁(ともひと)。生母は大江磐代(おおえいわしろ)。1779年(安永8)後桃園天皇の死に際し養子に立てられ践祚。89年(寛政元)父典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして幕府に反対された尊号事件がおきる。1817年(文化14)皇太子(仁孝天皇)に譲位したが,院政を行う。強烈な君主意識で朝儀の再興に努める。没後に漢風諡号と天皇号とをくみあわせた諡(おくりな)が,950年ぶりに復活。中宮は後桃園天皇の皇女欣子(よしこ)内親王(新清和院)。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…その間載仁親王に至る6代は世襲親王家として親王宣下を受け,また愛仁親王までの5代は実系をもって相続したが,愛仁親王に後嗣がなく,1872年(明治5)勅旨により載仁親王が伏見宮より入って第6代を継承した。なお光格天皇は第2代典仁親王の王子で,天皇は親王に太上天皇の尊号を宣下しようとしたが,幕府の反対により実現せず,1884年に至り,尊号と慶光(きようこう)天皇の諡号(しごう)が追贈せられた。【武部 敏夫】。…
…江戸後期,光格天皇がその父である閑院宮典仁親王に太上天皇(譲位した後の天皇)の尊号を贈ろうとして幕府に拒否された事件。1789年(寛政1)天皇は,前大納言中山愛親(なるちか)に命じて先例を調べさせ,承久~文安年間(鎌倉・室町時代)に2例あることを根拠として,所司代を通じて尊号宣下の承認を幕府に求めた。…
※「光格天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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