戸次庄(読み)へつぎのしよう

日本歴史地名大系 「戸次庄」の解説

戸次庄
へつぎのしよう

「べっき」とも読む。現大分市の南部、戸次・判田はんだ地区を中心に大野川中流域に比定される。「和名抄」の郷との関係は明確でないが、跡部あとべ郷の郷域に成立したとする考えと、判太はた郷に属し平安時代後期に別名的存在として認知・立券されたとする考えがある。地名や駅路などの関係から考えると後者の説が有力である。

〔成立と伝領〕

治承四年(一一八〇)五月一一日の皇嘉門院惣処分状(九条家文書)最勝金剛さいしようこんごう(現京都市東山区)領として「布こ うすきへつき」とみえる。同院は久安四年(一一四八)関白藤原忠通室藤原宗子が法性ほつしよう(現同上)内に建立した寺で(久安六年一一月二六日「太政官牒案」東福寺文書)、当庄の本家・領家職は、摂関家および摂関家から分立した九条家関係者に伝領される。当庄の成立の経過については不詳であるが、豊後大神一族による開発と思われ、また康治二年(一一四三)以前から久安五年二月まで豊後国守であった源季兼は忠通の家司政所別当なので、季兼から忠通へ寄進され、さらに同院に寄進されたものと考えられている。当庄は史料上では必ず臼杵うすき庄と対で併称されるが、これは成立の時期が同じ、あるいは地理的に隣接しているなどの可能性が考えられるが、不明。

宗子は娘の皇嘉門院藤原聖子にこれを譲り、聖子から甥にあたる良通(九条兼実長男)に譲られた。しかし良通が早世したため一時兼実に付託された。元久元年(一二〇四)四月二三日兼実は最勝金剛院領の当庄を息女宜秋門院任子に譲与し、女院の死後は孫の道家に譲ると定めている(「九条兼実置文」九条家文書)。道家からは九条禅尼(道家の子教実の妻恩子)に譲られ、一期の後は教実息女宜仁門院彦子に譲り、さらにその後は宜仁門院の甥に当たる忠教(教実の孫)へ譲るよう定められている(建長二年一一月日「九条道家惣処分状」九条家文書)。豊後国弘安図田帳には「戸次庄九十町 本家宜秋門院御跡」とあるが、鎌倉時代を通じて九条家領であったのは領家職で、建武三年(一三三六)八月二四日道家(忠教の曾孫)は豊後国臼杵戸次庄領家職の安堵を申請している(「九条道教家領目録案」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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