拝師(志)荘(読み)はやしのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「拝師(志)荘」の意味・わかりやすい解説

拝師(志)荘 (はやしのしょう)

山城国紀伊郡(現,京都市南区一帯)の荘園。〈はいしのしょう〉ともよむ。1313年(正和2)東寺領となって以来〈師〉を用い,それ以前は〈志〉と書く。荘号は拝志郷(《和名抄》)からきている。東と南が賀茂川,北は京都九条,西は天神川をもって限られる地域に存在したが,荘田は他の所領と入り組み散在していた畿内型荘園の典型である。平安時代末ごろ,九条民部卿藤原顕頼が紀伊郡水田11町を安楽寿院末寺興善院に寄進した。荘号は,1143年(康治2)の太政官牒によって興善院領が確定されたころ与えられたと推定される。それ以来本家職は興善院であり,かつ安楽寿院領として他の八条院領とともに,八条院-後鳥羽院-後高倉院-後宇多上皇へと伝領され,領家職は顕頼の子孫に伝領された。鎌倉時代中期の坪付注文には,本田と記載された興善院領拝志荘荘田と,日吉田と記載された日吉十禅師宮神田とが存在したが,この両方を興善院領拝師荘として,1313年12月7日に後宇多上皇が東寺に寄進した。東寺領となった翌年の坪付では,面積11町5反120歩であった。しかし東寺は正式寄進に先立って,1312年に同荘下司として仏成房を補任し,実質的支配を開始している。仏成は39年(延元4・暦応2)に下司職を子息六郎三郎に譲るまで,30年近く在任したが,東寺の在地支配は安定せず,1312年の東九条住人道願らの苅田狼藉や,近隣の芹河荘との相論が行われた。また,日吉田に関しても神田興行の実否をめぐる相論が,鎌倉時代の1320年代から室町の1450年代まで続いた。さらに南北朝時代には,上津鳥里19坪内田地3反を論所として,鳥羽小枝住人沙弥道忍の非分の濫妨を東寺が検非違使庁に訴え,裁判が行われた。1581-91年(天正9-19)にいたって豊臣秀吉から久世(くぜ)荘とともに安堵され,東寺の拝師荘支配は継続されている。
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