日本の城がわかる事典 「揖斐城」の解説 いびじょう【揖斐城】 岐阜県揖斐(いび)郡揖斐川町にあった連郭式の中世の山城(やまじろ)。標高約220m・比高約180mの城台(じょうだい)山の山頂に築かれていた。南北朝時代初期の1343年(興国4/康永2)に、土岐頼雄が築いたといわれている。頼雄は揖斐出羽守・揖斐氏を称した。揖斐城はその後200年あまりにわたって、揖斐氏代々の居城となった。1547年(天文16)、美濃国の守護代だった斎藤道三は、対立していた守護の土岐頼芸を大桑城に攻めて国外に追放した。このとき、頼芸に味方した相羽城の長屋景興を攻め滅ぼし、さらに、土岐一族の揖斐光親を揖斐城に攻めて落城させている。その後廃城になった。光親は城を脱出して流浪したが、やがて復帰して斎藤道三の長男・義龍(よしたつ)に従った。揖斐城はその後、揖斐氏家臣の堀池氏が居城としたが、織田信長の美濃国侵攻に伴い、稲葉良通によって城は陥落した。天正年間(1573~93年)の半ばには良通の子・稲葉貞通が城主となっている。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで東軍に与した西尾光教は、その戦功により揖斐3万石を与えられ、美濃国安八郡曽根からここに移ってきた。光教は揖斐城のあった城台山の麓に新しい城(揖斐新城)を築いて居城とした。しかし、1623年(元和9)、西尾氏は無子断絶で取り潰され除封、その領地は天領(幕府直轄領)となった。揖斐新城には旗本の岡田将監善同が美濃代官として入城し、その跡地に揖斐陣屋を建てた。この揖斐陣屋は揖斐川町指定史跡となっている。現在、揖斐城跡は城台山公園として整備され、曲輪(くるわ)跡や土塁、堀、井戸などの遺構が比較的良好な状態で現存している。養老鉄道揖斐駅から徒歩約25分。または同駅前から揖斐川町コミュニティバス、揖斐川町下車後、徒歩約5分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報