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土岐頼芸 とき よりなり

美術人名辞典の解説

土岐頼芸

美濃国主。姓源、名は宗芸、法名龍岳、文閑(文関)、宗源。小栗宗丹に筆意を学んで、山水人物画に巧に、又和歌も能くする。後家臣斉藤道三秀龍に居城を押領せれる。晩年には明を失う。天正11年(1583)歿、82才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

土岐頼芸 とき-よりなり

1501-1582 戦国-織豊時代の武将。
文亀(ぶんき)元年生まれ。土岐政房(まさふさ)の次男。斎藤道三に擁立され,兄土岐頼純(よりずみ)を越前(えちぜん)(福井県)に追放して美濃(みの)(岐阜県)守護となる。天文(てんぶん)21年道三とあらそって敗れ,のち尾張(おわり)(愛知県)の織田信長をたよったとされる。鷹(たか)の絵が得意で,土岐洞文と同一人物との説もある。天正(てんしょう)10年12月4日死去。82歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

土岐頼芸

没年:天正10.12.4(1582.12.28)
生年:文亀1(1501)
戦国時代の武将。美濃国(岐阜県)守護。政房の子。左京大夫,美濃守。兄との守護職相続争いに敗れ,美濃方県郡鷺山城に不遇をかこっていたが,のちの斎藤道三によって美濃国主に擁立され,山県郡大桑城に入城。やがて道三と不和になり,ついには美濃を追われて,土岐守護家はここに滅亡したという。細部については諸説あるが,道三によって美濃守護に擁立されたのは天文4(1535)年のことと推定され,翌年美濃守に任官。最終的に美濃を追われた年は天文21年とする説が有力であるが,確定的ではない。その後,近江六角氏に寄宿し,晩年は織田信長に扶持されていたらしいが,下総万喜の土岐庶流のもとにあったともいう。天正10(1582)年,旧臣稲葉良通(一鉄)に迎えられ美濃大野郡岐礼にあり,まもなく同地で病没。鷹の絵に優れ,同時代の武人画家,土岐洞文と同一人物とする説もある。俗説では道三の子義竜の実父であるという。

(谷口研語)

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世界大百科事典 第2版の解説

ときよりのり【土岐頼芸】

1502‐82(文亀2‐天正10)
戦国時代の武将。法名宗芸。美濃守護土岐政房の子。政房の死後家督をついだ兄頼武が,1535年(天文4)長井規秀(斎藤道三)のクーデタで追われたあと,道三に擁立され美濃守護となる。以後道三に実権を奪われたまま守護として在国したが,52年道三に追放された。その後六角氏の保護をうけ再起をはかるが果たせなかった。父政房のあとをうけて鷹の絵を得意としたと伝える。【勝俣 鎮夫】

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世界大百科事典内の土岐頼芸の言及

【斎藤道三】より

…道三は父の死により1533年(天文2)家督をつぎ,翌年長井氏の惣領長井藤左衛門尉景弘を倒した。さらに35年土岐頼芸(よりのり)をかついで,美濃守護土岐次郎頼武追放のクーデタに成功し,美濃国土岐家の実権をにぎった。しかし,国内の土岐・斎藤一族の反抗,それと結ぶ隣国の朝倉・織田氏の国内侵入により国内は混乱をつづけた。…

【土岐洞文】より

…〈洞文〉印をもつ《鷹図》などの作品が現存するが,土岐氏系図には記載がない。《画工便覧》は洞文を土岐頼芸(よりのり)の号としているが,頼芸ならば和歌に長じて文人的性格をもち,画技の習熟も考えられる。《細香斎図》(栃木県博物館)には円覚寺122世景初周随若年の著賛があり,越中黄梅派との脈絡が想定され,洞文画様式に曾我派的特色がみられることがうなずける。…

※「土岐頼芸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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