播磨国府(読み)はりまこくふ

日本歴史地名大系 「播磨国府」の解説

播磨国府
はりまこくふ

播磨国府については「和名抄」東急本の餝磨しかま郡に「国府」との注記があるくらいで、その後の古文書や文献に所在地を明記したものはない。早い時期から国司任地に向かわず、留守所で在庁官人が国務を行う場合が多かったが、播磨国では建長六年(一二五四)三月四日の播磨国司庁宣案(性海寺文書)および建治二年(一二七六)六月日の播磨国留守所下文案(正明寺文書)などから留守所の存在が確認できる。建武元年(一三三四)四月三日には播磨国司となった新田義貞が留守所に庁宣を下しており(「播磨国司庁宣写」同文書)、これは建武新政を機に機能していなかった留守所を復興しようとした動きとも考えられる。延徳二年(一四九〇)には大和法隆寺の僧快訓が政所としていかるが(現太子町)下向、道中四日目に加古川宿を発って鵤庄に到着している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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