日本歴史地名大系 「鵤庄」の解説
鵤庄
いかるがのしよう
現太子町の大部分と現龍野市の南東部の一部に比定される。大和法隆寺領。「法隆寺別当次第」の親誉の項に、法隆寺の寺主慶好を実検使として鵤庄に派遣したとあるので、親誉が別当になった長暦三年(一〇三九)以前に当庄は成立していた。天平一九年(七四七)二月一一日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(法隆寺蔵)にみえる推古天皇六年に法隆寺に施入された播磨国
嘉暦四年四月日の鵤庄絵図(法隆寺蔵)はこの時に作成されたものと一般的に理解されている。しかし日付部分は異なった料紙を貼付しているので検討を要するとの説もある。同絵図は国指定重要文化財。至徳三年(一三八六)五月日の鵤庄絵図(同寺蔵)は嘉暦図を書写したと記され、ほぼ同内容となっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報