鵤庄(読み)いかるがのしよう

日本歴史地名大系 「鵤庄」の解説

鵤庄
いかるがのしよう

現太子町の大部分と現龍野市の南東部の一部に比定される。大和法隆寺領。「法隆寺別当次第」の親誉の項に、法隆寺の寺主慶好を実検使として鵤庄に派遣したとあるので、親誉が別当になった長暦三年(一〇三九)以前に当庄は成立していた。天平一九年(七四七)二月一一日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(法隆寺蔵)にみえる推古天皇六年に法隆寺に施入された播磨国佐西させ地五〇万代(うち成町二一九町一段八二歩)が当庄の前身と思われる。佐西地は「上宮聖徳法王帝説」などでは佐勢地と記される。文治二年(一一八六)源頼朝は後白河法皇を通じた法隆寺の訴えにより鵤庄地頭金子十郎家忠の押妨停止を命じ、同三年再び押領を停止し領家(法隆寺)の所勘に従うよう当庄住人に命じている(「吾妻鏡」同年三月一九日条)。鵤庄久岡ひさおか名の名主内藤右馬允成国は承久の乱に後鳥羽上皇方として参戦して所領を没収され、青木兵衛五郎重元が新補地頭として補任された。これに対し法隆寺は再び異議を申立て、嘉禄三年(一二二七)五月二三日幕府は地頭職を撤回している(同書)。当庄下司職は開発領主と思われる桑原貞文から一〇余代にわたり桑原氏が世襲してきたが、桑原貞久の死後、尼浄心(桑原貞保母)代官となり、その後平盛時に下司職を譲り、武家がそれを任命したため法隆寺が補任権を主張した(同年八月三日「法隆寺牒」春日大社文書)。「古今一陽集」によると、建長年中(一二四九―五六)に鵤庄下司善寂が殺害事件を起こして寺領を没収されたため法隆寺が訴え、嘉暦四年(一三二九)三月二七日幕府は寺領を返付したという。

嘉暦四年四月日の鵤庄絵図(法隆寺蔵)はこの時に作成されたものと一般的に理解されている。しかし日付部分は異なった料紙を貼付しているので検討を要するとの説もある。同絵図は国指定重要文化財。至徳三年(一三八六)五月日の鵤庄絵図(同寺蔵)は嘉暦図を書写したと記され、ほぼ同内容となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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