救二郷(読み)くにごう

日本歴史地名大系 「救二郷」の解説

救二郷
くにごう

鎌倉時代からみえる郷。救仁郷・求仁郷とも記される。中世史料にみえる郷内の地名には蓬原ふつはら(現有明町)比志田ひしだ飯隈いくま益丸ますまる永吉ながよし(現大崎町)があるので、現在の大崎町と有明ありあけ町の菱田ひしだ川西岸地域にあたると考えられる。日向国建久図田帳には、島津庄一円庄のうちに諸県もろかた郡の「救二郷」一六〇町とみえ、惣地頭島津忠久であった。忠久は建仁三年(一二〇三)に比企氏の乱に連座して日向国の守護職等を没収され(「吾妻鏡」同年九月四日条)、それらの所職は北条氏の手に帰したと考えられる。在来領主は蓬原に拠点を構えた救二郷氏で、伴姓肝付氏の庶流であった(諸家大概)。文保元年(一三一七)五月二二日、大隅守護北条時直から救二郷地頭代に宛てた書下(旧記雑録)には、当郷の「飯熊別当」ならびに同扶持人彦兵衛尉兼村が布施大夫源盛と結託して岸良きしら(現内之浦町)の御米船に海賊行為を働いたとの訴えが肝付弁済使入道尊阿からあり、その糾明のために被告人を催進するよう命じられている。飯熊別当は神領じんりようにあった飯隈山飯福いいふく照信しようしん院の別当である。「諸家大概」に救二郷氏が飯隈山別当職を勤めたとあるので、この飯隈別当も救二郷氏の一族である可能性が高い。建武元年(一三三四)七月三日、みなみ(現末吉町・宮崎県都城市)において北条氏の旧被官らが蜂起、その参加者に「救二郷源太守時家人」「同郷弁済使蔵人宗頼一類」がいる(同年七月日「島津庄謀反人交名注文」旧記雑録)。救二郷源太は元弘元年(一三三一)一〇月日に救二院宝満ほうまん(現志布志町)に所領寄進を行った源資清のことと考えられる(「源資清寄進状」・年未詳六月二三日「常円・快賀・範郷連署状」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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