文殊門前(読み)もんじゆもんぜん

日本歴史地名大系 「文殊門前」の解説

文殊門前
もんじゆもんぜん

[現在地名]宮津市字文珠もんじゆ

天橋立南部砂嘴先端と相対し、智恩ちおん寺門前として形成された。

天正九年(一五八一)八月細川幽斎は米田宗堅に「九世戸門前」の検地を行わせ、総寺領高三七・四三四石とした(智恩寺文書)。慶長六年(一六〇一)五月京極高知は「先々の如く」寺領五〇石を安堵したが、その内訳を九世戸文珠分三七・四三石(門前分・波路分)、一三石(須津村分)、そのほか渡守給二段(宮津之内)としている(同文書)。同七年八月の文殊領検地帳(同文書)は、寺領高五四・五七石余(ただし門前・波路分のみ)である。天正・慶長両検地ともに零細な農民を登録しており、智恩寺の手作地に夫役を提供しながら個別経営を行う門前小百姓であったと考えられる。

天和元年宮津領村高帳では波路分であった智恩寺領三七・七〇五石がそう村分にうつっており、文殊門前は惣村の枝郷とみなされた。

文殊山内百姓は、文殊地内で新田開発につとめ、寺付六人が一二人となり、いわゆる寺百姓一二株なるものが起こった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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