江戸期の町人町。
町の起源は、永正二年(一五〇五)頃牧野古白が
明治五年(一八七二)二月に一町として公認された町(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)。
能代町の西部、東に
享保七年(一七二二)の能代町絵図(能代市役所蔵)に鍛冶町とあり、寛保元年(一七四一)成立の「代邑聞見録」に寛文年間(一六六一―七三)の建置とある。享保一五年の「六郡郡邑記」の家数は四五軒。享保一三年の能代町絵図(能代市役所蔵)に町名の記載はないが、道の両側に町屋が立ち並んでいる。文化年間(一八〇四―一八)の能代町絵図(県立秋田図書館蔵)によると、東側は柳町に続いて二三間ほどが鍛冶町分。そこで
寛延三年―明和四年(一七五〇―六七)の「能代惣町丈数改御町役割合古新除屋鋪かつ起銭差引庄屋礼銭共ニ本図帳」(村木家文書)によると、鍛冶町は
当町に
城郭の東方やや南寄りにある。南北に細長い東向きの片側町で、
東西に通る
平安京の条坊では町の北側は左京三条二坊三保一一町南、北側は同保一二町北。
町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「かぢや丁」とある。木版図系の寛永一八年以前平安城町並図に「ひしやもん町」、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図には「かちや丁」とみえる。毘沙門町の名は「坊目誌」によれば、当町に「妹之辻子」とよぶ小路があり、毘沙門天を本尊とする多聞寺があったというが、それにちなむか。また鍛冶町は鍛冶屋が居住したためである。「京雀跡追」に「かぢや丁・丸や丁 右二丁は万鍛冶多シ」とみえる。
市中の治安を担当した四座雑色の上雑色五十嵐氏配下の下雑色に、「姉小路堀川東入る町北 妹の図子 山村氏」の名がみえる(雑色要録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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