鍛冶町(読み)かじちょう

精選版 日本国語大辞典 「鍛冶町」の意味・読み・例文・類語

かじ‐ちょうかぢチャウ【鍛冶町】

  1. 東京都千代田区神田の地名。江戸時代、鍛冶師高井彌蔵、鋳物師椎名伊予の拝領地であったため呼ばれた。

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日本歴史地名大系 「鍛冶町」の解説

鍛冶町
かじまち

[現在地名]甲府市中央ちゆうおう四丁目

上連雀かみれんじやく町の南に並行する東西の通りの町人地。下府中二三町の一町で、さん土居内どいない町南西端に位置する。西はやなぎ町四丁目、東は桶屋おけや町。町名は鍛冶職人の居住に由来し、寛文四年(一六六四)の府中諸職人改帳(県立図書館蔵)にみえる。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(同館蔵)によると南側六五間・北側七四間。役引七町の一つで、甲府藩の時代には城下の鍛冶役引屋敷三三軒のうち二八軒が当町にあり、一軒に一人、一年に二四人ずつ鍛冶御用を勤め、一日に一人米七合五勺の扶持のほか鉄炭代が支給されていた(享保九年「甲府町方並寺社諸品申送帳」若尾資料)。しかし享保九年(一七二四)幕府領になって以後は御用が少なくなったことから、他の役引町とともに城内掃除人足を勤めることになった(同一〇年「役引七町掃除人足留書」県立図書館蔵)。安永九年(一七八〇)の御役引屋敷書上帳(同館蔵)でも三二軒の鍛冶屋敷のうち二七軒が町内にあり、二六軒が鍛冶職を営んで、その後も鍛冶職人の町として推移した。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]倉吉市鍛冶町一丁目

江戸期の町人町。打吹うつぶき山の北西に位置し、東は武家屋敷地(のちの瀬崎町)、北は越中えつちゆう町・広瀬ひろせ町、西は小屋こや町。鍛冶屋の多い職人町で、刀剣・農具、とくに全国に知られた稲扱千歯(倉吉千歯)製造を中心に一〇軒以上の職元(稲扱製造業経営者)が軒を連ねたという。寛延(一七四八―五一)頃の倉吉絵図(県立博物館蔵)に町名がみえ、竈数五五。同絵図によると、武家屋敷地中央を東西に走る往来(八橋往来・備中往来)は当町との間の上の広かみのひろ小路に突き当り、南へ折れてさらに西へ折れ、小屋町へと続く。往来南側の当町町家の南と東をたま川が限る。宝暦一一年(一七六一)の幕府巡見使倉吉来訪の際には、随行人の世話費用のうち銀銭二四匁を当町の五郎右衛門・平三・六平・善吉・二郎平・二郎左衛門が負担した。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]中央区天神てんじん三丁目

材木ざいもく町の東に位置する南北に延びる横町。町名は鍛冶匠が居住していたことにちなむ(続風土記)。元禄三年(一六九〇)の家数五三(同書)。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数六八(別本「続風土記附録」)。福岡博多近隣古図では家数四八・人数二三九、間数一九一間余。砲工荒地屋清右衛門が居住していた。隣接する材木町の銃工三家と同じく、先祖は播磨で黒田家に仕えた市木清兵衛道清で、道清は豊前中津でも黒田家に仕え、福岡藩主初代黒田長政の代に鍛冶町に屋敷を拝領した。道清の次男清右衛門を家祖とし、母方の姓である宗氏を名乗り、荒地家を家号とした。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]山形市相生町あいおいちよう宮町みやまち五丁目

六日むいか町で左に折れる羽州街道沿いの町で、街道の両側町とその北側に延びる新鍛冶しんかじ町がある。東から南は六日町、北は宮町、西は四日よつか町、南は小橋こばし町。最上兼頼が山形城を築城したとき鋳物師を薬師宮の西方に集め、また鉄器鍛工を城南の三の丸飯塚いいづか口付近に集住させたという。最上義光は山形城と山形城下の建設にあたり職人町を二ヵ所に分け、馬見まみさき川の北部には当町とどう町を配置したという。最上氏時代城下絵図では四日町の位置に「カチ町」がみえ、当時の町域は四日町を含んだ地域であったと考えられる。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]高梁市鍛冶町

元和四年(一六一八)、松山入部まもない池田長幸によって取立てられてできた町で、城下六町の一(「松山御城主暦代記」高梁市立図書館蔵)。北は下谷しもだに(現紺屋町川)を隔てて新町、南は牢屋ろうや小路を隔ててひがし町に続く。南北三町二〇間余の町で、幅員三間の往来および下谷川沿いに町家が並んでいた。東は横丁七通りで大工だいく丁・たて丁・荒神こうじん丁・甲賀こうが丁・八幡やはた丁に、西は横丁四通りでしも町へ続く。地子・公役免除の町。

元禄(一六八八―一七〇四)初年改では家数一四四(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]豊橋市鍛冶町

曲尺手かねんて町の東に続く表町。文政九年(一八二六)刊雲輔先生著「五十三次道中詩選」(橋良文庫蔵)に「宿入口鍛冶屋多」とあるように、吉田宿の東の入口に近い町で鍛冶職人が多かった。寛延三年(一七五〇)の吉田二十四町差出帳(同文庫蔵)によると、高三石余、戸口は六二軒・三二七人、うち男一六八・女一五九である。

町の起源は、永正二年(一五〇五)頃牧野古白が今橋いまはし城を築くに際し、牛久保うしくぼ(現豊川市)から現在の八町はつちよう通付近に鍛冶職人を呼寄せたのに始まる。天正一八年(一五九〇)池田輝政が吉田城を大改築した際に現新吉しんよし町の地に移し、さらに元和四年(一六一八)松平忠利の頃に現在地に移したという。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]上田市中央ちゆうおう六丁目

上田城の東にあり、町筋の南は蛭沢ひるさわ川を越えてよこ町、北は上鍛冶町からやり町(のち房山ぼうやま、現中央五丁目)につながる。町の長さ六町三〇間(長野県町村誌)

元和元年(一六一五)真田氏にゆかりの深い小県ちいさがた海野うんの海善寺かいぜんじ村の鍛冶を移してつくった。宝永五年(一七〇八)の鍛冶町年寄以下四九名連名になる口上書(柳沢文書)に、

<資料は省略されています>

とある。寛文三年(一六六三)家数四二、人数二八二人(原文書)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]函館市弁天町べんてんちよう弥生町やよいちよう大町おおまち

明治五年(一八七二)二月に一町として公認された町(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)神明しんめい町・鰭横ひれよこ(北東)山ノ上やまのうえ(南西)の間の通りに沿い、この通りを南東に進むとかた町に続く。近世には山ノ上町の小名であったと考えられる(「蝦夷日誌」一編)。函館沿革図の安政三年(一八五六)図に鍛冶町とみえ、一丁目(東)と二丁目(西)に分れている。万延元年(一八六〇)箱館全図には「カジ丁」とある。箱館の鍛冶屋は市街雑踏の地を避けて町外れに仕事場を構え、安政期には町内に五軒(ほかに築島に一軒)の鍛冶屋があった(維新前町村制度考)。明治九年の現住戸口は一〇九戸・四三〇人(函館支庁管内村町別戸口表)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]酒田市二番町にばんちよう

東西に連なる両側町で、東は東禅寺とうぜんじ分の名子屋なごや小路、西は桶屋おけや町。慶長―元和年間(一五九六―一六二四)なか町一丁目として町割された(→中町。御神宿帳甲乙全書(下日枝神社蔵)に寛永二年(一六二五)の酒田町組日枝神社祭礼神宿として鍛冶町式部、承応二年(一六五三)鍛冶町兼高が載る。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)には中町とみえ、長さ四五間・幅六間、屋敷一四軒。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]金沢市此花町このはなまち彦三町ひこそまち一丁目・本町ほんまち一丁目・安江町やすえちよう笠市町かさいちまち

鍛冶片原かじかたはら町の北に続き、北方堀川笠市ほりかわかさいち町に至る通りの両側町。安江鍛冶やすえかじ町とも称した(亀の尾の記)。明暦三年(一六五七)の書上は当町を地子町のうちの七ヶ所の一とする(「金沢市中旧記」加越能文庫)。元禄三年(一六九〇)の大火で当町も類焼(国事雑抄)。同八年の金沢町絵図名帳には組合頭の管轄別に鍛冶町と下鍛冶町がみえ、肝煎はいずれも冬助。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]米沢市中央ちゆうおう三丁目

たつ町の北に位置する町人町。東西の道に沿う両側町。脇町一三町の一。直江兼続が慶長三年(一五九八)以降に新設したと推定されている。同年兼続が鍛冶職人を金谷かなや村から黒川くろかわ町に移し、同八年御用鍛冶二五軒を鍛冶町に移したという。寛文一二年(一六七二)の惣町軒数目録によれば軒数三九余、うち鍛冶役屋二四・人足役屋七・無役八(うち検断屋敷四)で、御作事屋・鍛冶役・川除普請役のみ負担。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]弘前市鍛冶町

城の南東に位置し、親方おやかた町と桶屋おけや町を南北に結ぶ道筋の町並。西はほん町五丁目、東は新鍛冶しんかじ町に接する。

「平山日記」の元和九年(一六二三)二月一四日に「弘前鍛冶町にて出火有、三軒やける」とあり、正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)に、町屋として町割される。慶安二年(一六四九)弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)に「新かち町」とあり、鍛冶二七軒・桶屋一軒・扇屋一軒がある。寛文一三年(一六七三)弘前中惣屋敷絵図(同館蔵)には、下鍛冶町とあって町屋が二八軒。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]七尾市鍛冶町・川原町かわらまち

北は東地子ひがしじし町、南は川原町に接し、ほぼ南北に通じる内浦街道の両側に家並が続く(所口地図)。文禄五年(一五九六)四月一五日の前田利家印判状写(三輪文書)に「府中のほり道のこと、本かちや町にたてさせ」とあり、元和二年(一六一六)の所之口町絵図には「かち町通」とみえる。

元和二年七尾町に伝馬役銀が定められ、各町にそれぞれ割当てられたが、大工だいく町と東西の地子町と当町には割当がなく、承応三年(一六五四)各町の町夫高が定められた際も、大工町と当町は町夫の割付を受けなかった(「御代覚書」税務大学校所蔵文書)


鍛冶町
かじちよう

[現在地名]盛岡市紺屋町こんやちよう

かみ町中央より南に延びる奥州街道の両側町で、南北二町半ほどの町人町(「盛岡砂子」など)。東は内加賀野うちかがの小路、西は中津なかつ川河岸、南は紺屋町に接する。寛永城下図に町名がみえる。元文城下図ではカチ町と記され、幕末の城下図(葛西氏旧蔵)には北から南へ一丁目・二丁目とある。延宝九年(一六八一)に毎月一〇日・二〇日・晦日の新市を命ぜられたというが(盛岡砂子)、「御家被仰出」によれば同様の新市を命ぜられたのは天和二年(一六八二)で、当町とともに新市を命ぜられたなが町、てら(のちの花屋町)さかな町・うま町の五町以外での明シ松(松明か)の売買が禁じられている。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]川越市幸町さいわいちよう

みなみ町の南に続く南北道の両側の町人町。城下一〇ヵ町のうち下五ヵ町の一。南裏は志義しぎ町。天文―弘治(一五三二―五八)頃に相州の鍛冶平井某が当地に移住、その後は門人の鍛工らが住したことからの町名という(風土記稿)。慶安元年(一六四八)に検地があった(「佐久良能仁保比」中島家文書)。一七世紀後半頃の川越城図に「カチ町」とみえる。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では町の長さ六三間、家数一五・店数八、男七八・女四四。


鍛冶町
かじちよう

[現在地名]八戸市鍛冶町

八戸城下の東南端に張出した町人町。東は類家るいけ村、西は糠塚ぬかづか村・山伏やまぶし小路、北は大工だいく町、南は糠塚村に接する。南方に延びる久慈くじ街道の起点にあたる。文久年間(一八六一―六四)八戸御城下略図に鍛冶丁とあり、町家とされる。南には鍛冶丁堤がみえる。八戸藩日記の元禄二年(一六八九)一二月二一日条に「大工町、鍛冶町御町奉行支配ニ被仰付之」とあり、同年城下に編入された。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]鳥取市鍛冶町

若桜わかさ町の南東に続く両側町。元大工もとだいく町の南西にあたり、南にはてら町の光明こうみよう寺がある。元和五年(一六一九)城下町拡張に伴う町割のとき、町人地四〇町のうち上構二〇町の一町として起立された(因幡志)。町名の由来は鍛冶師が軒を連ねていたことにちなむ(鳥府志)。寛永一一年(一六三四)の竈数二九(因幡志)。安永七年(一七七八)の家数九四、表口間数合せて一七一間余、町役負担七〇人余、賦課比率の等級は下に定められる。


鍛冶町
かじちよう

[現在地名]日野町大窪おおくぼ 上鍛冶町かみかじちよう下鍛冶町しもかじちよう

長島ながしま町・鍛冶今かじいま町の西、日野大窪町の東端に位置する。城下町形成時以来の職人町で、北側の上鍛冶町と南側の下鍛冶町に分れ、延宝七年(一六七九)から日野大窪町鍛冶組に所属。城下町割ではみなみ町通九ヵ町の一、鉄炮てつぽう町が上鍛冶町に、南今みなみいま町通七ヵ町の一、鍛冶町が下鍛冶町にあたる。正徳五年(一七一五)の三町絵図では上鍛冶町・下鍛冶町と記され、上鍛冶町には蔵屋敷と牢屋が南面して描かれる。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]能代市西通にしどおり町・大手おおて

能代町の西部、東にやなぎ町、西に盤若はんにや町がある。

享保七年(一七二二)能代町絵図(能代市役所蔵)に鍛冶町とあり、寛保元年(一七四一)成立の「代邑聞見録」に寛文年間(一六六一―七三)の建置とある。享保一五年の「六郡郡邑記」の家数は四五軒。享保一三年の能代町絵図(能代市役所蔵)に町名の記載はないが、道の両側に町屋が立ち並んでいる。文化年間(一八〇四―一八)の能代町絵図(県立秋田図書館蔵)によると、東側は柳町に続いて二三間ほどが鍛冶町分。そこでしん町から出戸でと町へ抜ける道路と交差し、西の盤若町境まで五三間余。裏行は北側で一五―一六間、南側が二一間。

寛延三年―明和四年(一七五〇―六七)の「能代惣町丈数改御町役割合古新除屋鋪かつ起銭差引庄屋礼銭共ニ本図帳」(村木家文書)によると、鍛冶町は下川反しもかわばた町・出戸町とともに人足伝馬の割当があり、町役負担が減ぜられた。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]加賀市大聖寺鍛冶町だいしようじかじまち

山田やまだ町の東から南を囲む町人町で、北陸街道に沿う。南側は願成がんじよう寺・本善ほんぜん寺の敷地。大聖寺川は延宝元年(一六七三)の付替え以前は当町東側の宅地裏を流れており、さいが淵という崖地であった。「秘要雑集」に「享保の比迄は、大聖寺も今の如く町家もなく、鍛冶町が端にて、新町は新家営みし故に新町といふと承る」とあり、江戸時代中頃までの大聖寺町の町端は当町で、危険な火を扱う鍛冶屋をここに集住させたといわれていた。しかし寛永年間(一六二四―四四)の大聖寺町家図(伊東家蔵)や元禄年中(一六八八―一七〇四)の町家図(同家蔵)にはすでに当町の東に延びるあら(荒町)が記載されている。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]鶴岡市陽光町ようこうまち

上肴かみさかな町の西端から南へ向かう小国おぐに(湯田川)街道沿いにある職人町。北端は郭内とを結ぶ鍛冶町口木戸、南は八日ようか町へ至る。延宝六年(一六七八)の城下絵図に鍛冶町八九間とある。元和八年(一六二二)の酒井氏入部後、寛永(一六二四―四四)初年に町割されたらしく、同二〇年の間数二四間(大泉掌故)。町名は鍛冶職が居住したことによる。天和三年(一六八三)の町割は一町半、家数四七、男一七九・女一四二(「鶴ヶ岡町割家数人数書上」鶏肋編)。元禄七年(一六九四)の人別改帳(川上記)では本屋数四〇、男一七五・女一二四、名子家数二八、男四七・女四三(宿借・店借とも)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]小倉北区鍛冶町一―二丁目・魚町うおまち二丁目・堺町さかいまち二丁目

大坂おおさか町の南の筋で、東西に延びる町並。町名は具足鍛冶師の芳兵衛・吉兵衛が居住したことに由来するという(倉府俗話伝)。東鍛冶町とも(小倉領寺院聚録)、東鍛冶屋町とも記される(「倉府見聞集」県史資料三)。慶長(一五九六―一六一五)頃、宇都宮氏家臣某が当町に居住、米屋と称した(寛永一一年鳥町に移転、「小倉商家由緒記」など)。当町は一―二丁目がなく、一丁目に相当するのがたから町三―四丁目、二丁目は武家屋敷と寺のある成願寺じようがんじ通。鍛冶町三丁目は魚町二―三丁目に属し、同四丁目は魚町二―三丁目およびとり町二―三丁目に属する。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]沼田市 鍛冶町

ふくろ町・下之しもの町境から南に延びる道の両側に割られた両側町。南端に鍛冶町木戸があり、木戸手前を西へ延びる道がよこ町。同木戸外は坂を下り戸鹿野新とがのしん町へ続く。延宝五年(一六七七)城下絵図(高橋家蔵)では横町と合せて町家数六五筆。「沼田町記」延享五年(一七四八)写分では南北二一〇間で町家数七六。人数は横町と合せて三八九人で、ほん町・材木ざいもく町とともに城下町形成の初期に町割されたとする。同町記に収める貞享三年(一六八六)検地帳では横町と合せ高三一七石余。明和三年(一七六六)には当町の鞘木問屋二人など四人が山元の藤原ふじわら(現利根郡水上町)に資金などを融通、また一年に二万本ほどの鞘木を買受ける約定をしている(「鞘木伐請負内済証文」水上町郷土資料館保管)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]桑名市鍛冶町

入江いりえ町の西にあり、東海道筋の町屋敷地。町の中央に鍛冶町御門(吉津屋御門・七ッ屋御門)と見付番所がある。この門の南を七ッ屋ななつや町、北を吉津屋よつや町と称し、江戸時代の初期は鍛冶町はなかった。のち吉津屋町の南側一部と七ッ屋町とが合併、当町が成立した。享和二年(一八〇二)の石取神事車順番には鍛冶屋町とみえる(久波奈名所図会)。鍛冶町御門を巡って東海道は枡形に曲折する。諸大名通行の節には同門より本行列を整えて城下に入った。また城下の用水(飲料水)町屋まちや川から掘割水道で導き、同門より内側へは地下水道となっている。

当町に蓮花寺れんげいじ村の土豪出身の内山氏が居住、「久波奈名所図会」によると「当町鍛冶職業の家多し。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]烏山町中央ちゆうおう二丁目・おもてあさひ一―二丁目

なか町四つ辻より東へ延びる常陸国へ通じる街道沿いに町並が形成される。東端は城下東入口にあたり、木戸と辻番所が、仲町境には中木戸が置かれた。町の長さ一二七間半。正徳期(一七一一―一六)と推定される町絵図(烏山町郷土資料館蔵)によれば家数三九。享保一六年(一七三一)の人数二六八(「宗門人別帳」同館蔵)。同一一年の明細帳(同館蔵)によれば農外渡世の者として大工二・桶屋一・紺屋一・傘屋一・紙漉一・鍛冶屋七・造酒家一・座頭一がいる。寛政一〇年(一七九八)当町から出火した火災は、ほぼ全町が焼失する大火となった(烏山町史)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]大和郡山市北鍛冶町・中鍛冶町・南鍛冶町

郡山城主増田長盛は文禄五年(一五九六)郡山城の外回り惣堀普請にかかり、城下町を包み込む外堀をつくった。それまで城北地区を南流する秋篠あきしの川は鍛冶町・高田たかだ町を貫き、添上郡稗田ひえだ(大師集落)付近で佐保川に合流していたが、そのさい奈良口ならぐちで東へ直角に曲げ佐保川に落した。これを「奈良口大橋川の川違い」といい、その川跡を堀に転用した。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]浜松市鍛冶町・旭町あさひまち

さかな町の南端に直交し、東西に延びる脇町。西端は伝馬てんま町に直交し、南は武家屋敷の後道うしろみち(井上氏時代城下絵図など)。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳によれば町の長さ一町四〇間、家数三八。浜松各町書上によると町並は南側一〇四間・北側九八間三尺、町幅二間四尺。横町は西側一八間一尺・東側二三間五尺。本役家屋敷二六、総家数六一、うち借屋一三・借地七。文政元年(一八一八)の鍛冶職口上之覚(浜松宿諸職記録)によると、徳川家康の浜松在城期には城内三の丸に鍛冶屋敷があったという。鍛冶役屋敷数は二九軒、御役高五八〇工で、材料は城主持ち、役料は一日一人につき扶持米一升五合であったという。


鍛冶町
かじちよう

[現在地名]新庄市北町きたまち

広小路から指首野さすの川を渡り、突当りを右折して茶屋ちやや町に続く。南裏の指首野川沿いは武家町である。延享三年(一七四六)の家数四三、宝暦一一年(一七六一)の家数四三、天明八年(一七八八)の家数四二・人数一五六、天保九年(一八三八)の家数五〇・人数二五一、馬六(新庄城下町の研究)。「新庄寿永軒見聞集」によれば、侍の刀槍・鉄砲をつくり、農民の鍬・鎌・山刀・包丁・釘などをつくっている。


鍛冶町
かじちよう

[現在地名]水戸市東台ひがしだい二丁目・ほん町三丁目

本七町目から北に入り十軒じつけん町に向かうところにあり、東は曲尺手かぎのて町、北は赤沼あかぬま町・十軒町。「新編常陸国誌」に「古記云、南側二十一間、西側六間、東側三十七間、北側三十七間、戸数二十七」とあり、また「寛永十八年、町付村水帳及正保年中ノ旧記ニ、鍛冶町ノ名見ユ、寛文八年間口帳ニ、百四十七間二尺トアリ、元禄三年其四十六間ヲ割キテ、赤沼町ニ属セリトゾ」とある。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]大野市もと

四番しばん通で七間しちけん通と八間はちけん通の間の両側町。道幅五間。中央に用水が通る。金森長近亀山かめやま城築城の際鍛冶師を呼寄せ、ここに住まわせたと伝え、尾崎家には、次の鍛冶座安堵状はじめ多数の鍛冶座関係文書を伝え、江戸時代を通じて藩の保護を受けたことがわかる。


鍛冶町
かじちよう

[現在地名]高崎市鍛冶町

城郭の東方やや南寄りにある。南北に細長い東向きの片側町で、下横しもよこ町の興禅こうぜん寺境内地(前栽町)を挟んだ西側にある。北から東は檜物ひもの町。宝暦五年(一七五五)の「高崎寿奈子」に「北側四十三間四尺四寸、檜物町の角より城の方への町なり、名主木村忠右衛門、此町不残かぢ屋也」とあり、この頃は檜物町の角から三ノ丸の堀へ出る小路の北側にあったことが知られる。同地はのちに米見役人の長屋が建ち米見町ともいわれた。「古暦鏡」(「更正高崎旧事記」所引)にも「文化四卯四月、米見町替リ、鍛冶町建」とある。「高崎志」によると当町は箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)から移った町で、かつては守重・守次・守行などの刀工がいた。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]村上市鍛冶町

東は小国おぐに町と接し、南西に一町三一間延びてさかな町へ続く。はじめはかん町から西へ入る現在の細工さいく町の位置にあったが、寛永一二年(一六三五)現在地へ移され新鍛冶しんかじ町と称したという(村上城主歴代譜)。同年の村上惣町並銘々軒付帳(本間喜千郎氏蔵)には上町の次に「本加治町」、寺町の次に「新鍛冶町」が記される。新鍛冶町の家数一六で、すべて諸役なし。御蔵下代・鉄砲衆・十人組頭がいた。各家の間口は一〇間と九間で、他町に比べ倍に広くとってある。はじめ当町に六軒の鍛冶職が集まっていたといわれ、六軒鍛冶の名称が残る。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]本荘市鍛冶町

本荘城下町外町の最北端で子吉こよし川の左岸に隣接し、東は桶屋おけや町、南は日役ひくじ町で、町名の由来は鍛冶職人の町であったことによると思われる。万用記によれば、年代不明ながら鍛冶町の勘左衛門に「其方儀甲冑職分夫々行届候段被御用上、今度弐人御扶持被下置帯刀御免被成候」との記録がある。

子吉川の河岸には係船場があり、近世には番所があった(本荘郷土史)。対岸石脇いしわきに渡る大渡おおわたり渡船場があり、「羽陰温故誌」に「古雪の上流八丁にあり往時舟渡四艘を備ヒ平常ハ二艘ヲ以テ行人ヲ渡シ、舟賃ヲ要ス」とある。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]松阪市日野ひの

日野町組に属した。

「権輿雑集」に「天正十六子年従松ケ嶋移、御陣所御用務に付、往古より無町役、鍛冶頭三人有、高橋氏は次郎左衛門、七左衛門、伝兵衛迄三代勤、横山氏は治左衛門、善兵衛、定七迄三代勤、西村氏は仁兵衛、七左衛門、惣右衛門、二代惣右衛門、四代庄助迄五代勤、但伝兵衛、定七家断絶ニ付、中谷八郎兵衛暫代之」とみえ、当町が松坂建設とともにまつしまより移転したこと、陣所用務のかわりとして町役が免除されていたことを記し、次いで鍛冶頭の系譜に触れる。


鍛冶町
かちまち

[現在地名]青森市橋本はしもと一丁目・ほん町五丁目の各一部

てら町の東、西は大工だいく町に続く。

寛文一一年(一六七一)に町割された(青森市沿革史)。鍛冶職の者が多く住んだことによる町名で、寛文一一年は青森御仮屋が建設された時期であったから、大工町とともに鍛冶町が町割されたとも考えられ、農具や造船用の船釘を製作する鍛冶屋もいた(青森市町内盛衰記)。貞享四年(一六八七)の検地では、四一人の町人が記される(青森市沿革史)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]福知山市字鍛冶

福知山城下町地の西南部にある南北の両側町で、上・中流の武家地に最も近く位置する。東は上新町かみしんまち、北は上紺屋町かみこやまちで、南端を東行すれば京町きようまちである。

有馬豊氏時代(慶長―元和)の福智山城之絵図には町名はなく、稲葉紀通時代(寛永―正保)の福知山城下図に初めて「カヂヤ町」とある。鍛冶町は武家の刀鍛冶を中心にした町で、寛政一二年(一八〇〇)の年号のあるこの町の土地売買証文にも、その請人として鍛冶屋某・鉄屋某の名がある。

文政二年(一八一九)七月鍛冶町より出火した火が大火となり、城下六〇〇軒を焼いた。


鍛冶町
かじちよう

[現在地名]館林市本町ほんちよう一丁目

館林城大手門の南西付近に位置し、谷越やごえ町とかた町を東西につなぐ。「館林記」には「四百五十間三尺鍛冶屋町御堀端ヨリ目車町行当リ迄」とあり、延宝(一六七三―八一)頃は鍛冶屋町とも称されていたらしい。延宝二年の城下町図には、町の長さ一町七間余とある。館林町先規之次第覚書(館林市立図書館旧蔵)によると、二九軒中鍛冶職の者一一人を数え、定められた年職役一三〇人とある。館林城下六月六日・七日の牛頭天王の夏祭に当町より刀鍛冶の山車を出す慣例であった。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]結城市結城 鍛冶町

こく町の北に位置。御朱印ごしゆいん堀の内にあり、文禄年間(一五九二―九六)結城秀康によって建設されたとみられ、初めは鍛冶職人が集住していたと考えられる。元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によると地子免除地で、町中間数は三四間半。宝永五年(一七〇八)の結城町明細帳之控(田宮家文書)によれば店借り一三・寺門前一八を含む六七軒の家と番屋一、安穏あんのん寺・無垢むこう庵があった。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]姫路市鍛冶町

姫路城北東の外曲輪に位置する町人町。かぎ町の北にほぼ南北に延びる町筋で生野いくの街道(但馬街道)に沿う。町名は武具や農具を生産する鍛冶職人が住んでいたことによる。慶長六年(一六〇一)の裏書がある野里村古地図に「野里之内かち町」とみえる。慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図には「かぢや町」とある。姫路町書上帳、元文五年(一七四〇)の姫路町飾万津町地子銀控によれば家数七四・地子銀六八一匁余。寛延四年(一七五一)頃の鍛冶町絵図によると生野街道の東側に四二筆、西に三一筆の屋敷がある。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]富山市室町通りむろまちどおり一―二丁目

材木ざいもく町の西に続き、東西に延びる両側町。西は三番さんばん町で、南西には古鍛冶ふるかじ町がある。本町のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ、前田利次による町割当初からの町。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理に町名は古来鍛冶匠が多く居住したことに由来するとある。安永八年(一七七九)の本家数三一・貸家数三六で、二丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)


鍛冶町
かじちよう

中京区姉小路通油小路西入

東西に通る姉小路あねやこうじ(旧姉小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では町の北側は左京三条二坊三保一一町南、北側は同保一二町北。

町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「かぢや丁」とある。木版図系の寛永一八年以前平安城町並図に「ひしやもん町」、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図には「かちや丁」とみえる。毘沙門町の名は「坊目誌」によれば、当町に「妹之辻子」とよぶ小路があり、毘沙門天を本尊とする多聞寺があったというが、それにちなむか。また鍛冶町は鍛冶屋が居住したためである。「京雀跡追」に「かぢや丁・丸や丁 右二丁は万鍛冶多シ」とみえる。

市中の治安を担当した四座雑色の上雑色五十嵐氏配下の下雑色に、「姉小路堀川東入る町北 妹の図子 山村氏」の名がみえる(雑色要録)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]佐和田町鍛冶町

東福とうふく城跡の堀を挟んで東側、石田いしだ川に沿って町並をつくる。「佐渡四民風俗」に「鍛冶町にて鉄・刃物細工等仕出し候」とある。町の草分と伝える石塚甚五右衛門家の「旧記」は、慶長九年(一六〇四)に開けたとする。それ以前は河原田本間氏の鉄細工職人が集住していたのであろう。江戸時代、佐渡の鍛冶頭であった中村清助家にある延宝五年(一六七七)の鍛冶法度には「銀山御入用鑽御定之鈍目無相違打立指上可申候」とあり、鍛冶町鍛冶が慶長以後佐渡金銀山での鉄製品需要にこたえてきたことを推測させる。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]上野市鍛冶町

二之町にのまち筋の東にあり、北は片原かたはら町、西はうお町に続く。初め二之東にのひがし町といわれた家数十数軒の小町。鍛冶職人を住まわせたための町名といわれ、鍛冶屋助右衛門(姓井上)家があり、芭蕉門人で土芳門の西村几右(作左衛門)家は鉄砲鍛冶であった。几右は居所にちなみ二東軒を称し、芭蕉没後の伊賀蕉風の興隆に尽した(「芳門句牒稿本」沖森直三郎氏蔵)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]津山市鍛冶町

三丁目さんちようめ北裏の東西通りの両側町。東は美濃職人みのしよくにん町、西は上紺屋かみこうや町、北は下紺屋町。正保城絵図に町屋が記される。万治町絵図や、「武家聞伝記」寛文三年(一六六三)四月条に町名がみえ、元禄町絵図には「カヂ町」と記す。元禄一〇年(一六九七)の家数等改帳では家数五五、本役二四軒半、町筋東西六二間半・通道町幅二間半、関貫二。同年の人数改帳では五〇四人、安政五年(一八五八)には一三九人(町奉行日記)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]大館市鍛冶町

城下南西部に位置し、羽州街道に沿う町人町。享保一三年(一七二八)の大館城下絵図および同一五年の「六郡郡邑記」に「鍛冶町」とみえる。鍛冶職人の居住した所で北はおお町と接し、南は東から入るしん町と接する。「郷村史略」には「大町(前略)鍛冶町支配町也」「新町鍛冶町之内大工町、柳町之内支配、風呂屋町同断」とある。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]小矢部市新富町しんとみまち

下飯田しもいいだ町の東隣、北陸街道沿いの両側町。本町に属する。木舟きぶね(現福岡町)の城下にいた鍛冶職人が前田利秀の今石動入城に伴い移り住み、無役の拝領地を与えられて成立(今石動由来)。寛保二年(一七四二)には宅地一千一五五歩で、地子米八石五斗五升余(一歩につき七合八勺余)。地内に下飯田町の地四五歩があった。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]鈴鹿市神戸かんべ六―七丁目

たて町の北に向かって延びる町。小城下町のなかで職業に基づく唯一の町名である。事実最近まで三軒の農具鍛冶が営業を続けていた。一説には戦国時代神戸に刀工小林国助がいた(神戸録)ことによるともいうが疑わしい。享保一七年(一七三二)町の長さ二町五二間、戸数四〇(九皐抄)、文政八年(一八二五)戸数二五(高野家家譜)、明治二年(一八六九)戸数三九(伊藤家文書)


鍛冶町
かじちよう

[現在地名]静岡市紺屋町こうやまち昭和町しようわちよう

駿府城下の横筋(横町)第二行西端の両側町。西は下桶屋しもおけや町、東は江川えがわ町に続く(以上、町方絵図)。町名は鍛冶職人の居住に由来し、刀鍛冶藤原兼法は徳川家康に召連れられ駿府に居住、刀剣・農具・釘の三鍛冶の頭となる(駿河記)。「駿府広益」は「権現様諸役御免許之証文被下候故」に「諸役一切相勤不申候」と記している。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]松江市東本町ひがしほんまち四丁目

京橋きようばし川に架かる鍛冶橋南詰東側に位置する町人町。対岸は南田みなみた町、西は末次魚すえつぐうお町、南は新材木しんざいもく町、東は漁師りようし町の御船奉行所に接する。町名は船の金具や釘などを製造した鍛冶職人が居住していたことに由来するという。堀尾時代城下図に町屋がみえる。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]福井市宝永ほうえい三丁目

三上みかみ町の西に続く町で、西は東子安ひがしこやす町に続き、北はむろ町、南は上江戸かみえど町。鍛冶職人の住む町で、正徳三年(一七一三)町絵図出来の際調書(「福井市史」所収)によると、無役町人は甚兵衛・儀左衛門、鍛冶役は三一軒。明治五年(一八七二)の調査でも鍛冶職三・鉄物商二・銀具匠二を数えた(福井市史)


鍛冶町
かじまち

[現在地名]福井市西木田にしきだ一丁目

木田辻きだつじ町の東方に延びる町で、東は春日かすが町に続く。往昔、九頭竜阪又四郎と称する野鍛冶の居住したことにより、町名が起こったという(福井市史)。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳に「鍛冶町 百間、往還ヨリ春日町迄、但道幅弐間半」とある。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]松任市鍛冶町

博労ばくろう町の東に続く後町うしろまち通の両側町で本町。東は辰巳たつみ(もと東後町)。天明五年(一七八五)の町絵図(松任市立博物館蔵)に「西後町」とみえ、両側に町家の屋並が描かれている。後町の称は寛文二年(一六六二)の間数改帳(松任町史)にみえる。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]長野市松代町鍛冶町

中町の東にある町人町。町名は鍛冶屋が住み始めたことによる。町通りの上には鏡屋かがみや町があり、下にはさかな町が続く。明治初年に遊女屋ができたが、まもなく禁じられ、料理屋が多い。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]相馬市中野なかの 北反町きたそりちよう

大工だいく町南端の浜街道の枡形から西に折れ、滅多めつた町に至るまでの東西の通り。もと鉄工・剣匠らが配置され、さらに鍛工・銃工が集住したのが町名の由来とされる。


鍛冶町
かじまち

[現在地名]松本市城西じようせい二丁目

松本城三の丸外の通りで、鷹匠たかしよう町に接する。「信府統記」に「鷹匠町 東西百三間余、北ケ輪家八軒、但シ、南ノ端鍛冶細工所アリ、鍛冶屋脇ノ木戸ヨリ南ヘ西馬出シ南角迄、南北九拾三間余、西ケ輪ニ家数二軒、東側堀端ナリ、但シ鉄砲細工所アリ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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