新井城跡(読み)あらいじようあと

日本歴史地名大系 「新井城跡」の解説

新井城跡
あらいじようあと

[現在地名]三浦市三崎町小網代

小網代こあじろ半島の先端部を利用した平山城。北は小網代湾、南は油壺あぶらつぼ湾に面している。半島先端部を堀切によって孤立させ、その内側に土塁をめぐらしていた。この土塁は現在も東京大学臨海実験場用地内に残る。築城年代・築城者は不明。地形からみて初めは三浦氏の水軍関係の城ではなかったかと思われる。

「北条記」によれば、明応三年(一四九四)三浦時高と養子義同(道寸)が対立し、時高が籠った「新井の城」に義同が押寄せ、合戦に勝って三浦氏の主となった義同はその後子の義意を当城に置いた。永正九年(一五一二)から同一三年にかけて北条早雲が攻城し、兵粮つきた義同・義意父子は討死(北条五代記)、三浦氏は滅亡した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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