戦時における軍兵の食糧。古代令制では糒(ほしいい)6斗と塩2升が自弁すべき軍糧として定められていたが,《延喜式》によると長門国で公出挙(くすいこ)稲4万束が兵粮料に充てられていた事例があり,特定の条件下では国庫から補われることもあった。中世成立期の源平内乱の時代には,これらに加えて新しい兵粮調達方式が登場する。朝廷が臨時の国家的用途のために徴集する税制として平安末期に形成してきた一国平均役を土台とする,戦時の兵粮米徴集がそれである。1180年(治承4)平氏が源氏蜂起時に諸国に課した兵粮米を初見とし,その方式は源義仲・源頼朝軍による平家追討時に継承され,やがて85年(文治1)11月のいわゆる文治守護地頭勅許のさいに,頼朝は朝敵となった源義経追捕の手段として諸国の荘公一律に反別(たんべつ)5升の兵粮米徴集を朝廷に要求し,認可された。兵粮米徴集が登場しえた背景には,戦闘を目的とする賦課が必要かつ可能となるほど,大規模な交戦が頻発するようになった中世社会固有の条件があると考えられる。しかし朝廷や荘園領主の発言力が強く,かつ朝廷の認可によって賦課すべきものという観念の強かったこの時代には,これを恒常的賦課に転化させようとする幕府や武士の意図は貫きえず,文治勅許の兵粮米徴集もわずか2,3ヵ月で朝廷・荘園領主の反対で停止され,以後承久の乱その他戦時の兵粮米徴集は定着したが,臨戦賦課の限界を超えるものではなかった。
南北朝期に入ると,諸国での武士の社会的成長は朝廷や荘園領主の所領支配を制約しうるようになり,かつ戦闘の性格自体が鎌倉時代までに比して,さらに大規模かつ恒常化したものになってきたため,諸国の守護たちは自己の権限で頻繁に兵粮を徴集するようになり,恒常的な税目の一種となってきた。室町幕府も1352年(正平7・文和1)には戦場となった8ヵ国(近江,美濃,伊勢,志摩,尾張,伊賀,和泉,河内)の寺社本所領の当年分収益の半分を兵粮料所として,すべて守護・武士の自由にゆだねるという法令(半済(はんぜい))さえ発布するに至ったから,守護・武士らの上述の動きを支え,幕府の禁圧にもかかわらず兵粮料所は恒常化し,聖域として残された寺社本所領侵食の決定的なてことさえなった。さらに室町時代後期から戦国時代に入ると,戦士自弁の兵粮(当時腰兵粮といった)や兵粮米徴集のほかに,戦国大名結城氏の法度や豊臣秀吉の柴田勝家討伐(賤ヶ岳の戦)の例などから知られるように,購入や借入による兵粮の調達も行われるようになる。またこれと並行して,在来の幕府レベルでは財政一般を担う蔵奉行の職務内にあり,守護・武士のレベルでは賦課徴集一般を担う者の兼務であった兵粮徴集・分配の仕事が独立する。すなわち織田・豊臣政権においては兵粮奉行,諸大名レベルでは小荷駄奉行という固有の役職として成立し,近世の兵粮徴集体系の原型となった。これら一連の変化の背後には,戦国時代に百姓をも足軽として編成し,長期にわたって外戦を行う,より大規模かつ質的に新しい戦闘形態が,貨幣経済の進展や鉄砲の導入などと結びついて成立してきたという事情が考えられる。
執筆者:義江 彰夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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