新入炭鉱(読み)しんにゆうたんこう

日本歴史地名大系 「新入炭鉱」の解説

新入炭鉱
しんにゆうたんこう

現在の直方市上新入・下新入・植木うえき山部やまべ鞍手くらて中山なかやまなどにあった炭鉱。筑豊地方の中心部、交通および通信上至便の所にあり、筑豊地方所在の炭鉱における電話の架設は、明治三〇年(一八九七)の当鉱を嚆矢とするという(筑豊炭礦誌)炭質は粘結性があり、発熱量は六五〇〇―六八〇〇カロリー、汽缶燃料およびガス発生用として用いられた。送炭は当初は鉱区の東方を流下する遠賀おんが川の水運によったが、明治二四年の筑豊興業鉄道直方―若松わかまつ(現北九州市若松区)(現JR筑豊本線)の開通後は鉄道輸送で行われた。最寄駅は筑前中山駅(貨物駅)で、そこから若松戸畑とばた(現北九州市戸畑区)などを経て、自社販売機関(三菱合資、のち三菱鉱業)により京浜・阪神・中国・名古屋・九州の各地方に運ばれた。

当鉱の中心部分である第一坑は海軍予備炭田のうち、開放後に帆足義方の所有となった区域である。この区域では帆足の実弟斯波義兼が明治一六年から事業を開始して開坑工事に着手。翌一七年には汽缶その他の機械を据付けたが、その後三野村利助の所有となり、さらに近藤廉平の名義を経て同二二年三菱合資会社の所有となる。ここで伯爵河村純義の名義であった中山・植木・新入にまたがる鉱区を合併、漸次事業の拡張を行った。三菱は同二四年に直方町大字山部で第二坑を開坑、また同二九年二月に中野寿作より木月きづき炭鉱(古月村)を、渡辺壮兵衛より瑞穂みずほ炭鉱(植木村大字植木)を、同年一二月には許斐鷹介より直方本洞のおがたほんどう炭鉱(下境村ほか一)の譲渡を受け、各々第三・第四・第五坑と称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報