新屋庄(読み)にいやのしよう

日本歴史地名大系 「新屋庄」の解説

新屋庄
にいやのしよう

摂関家渡領および奈良興福寺領庄園。文和元年(一三五二)二月一八日の総持寺領散在田畠目録写(常称寺文書)みえる「新屋村四条四里十二坪」「新屋村之内四条三里卅五坪」の条里坪付から、西河原の天照御魂にしがわらのあまてるみたま神社周辺を新屋村とよんでいたことがわかるので、新屋庄は西河原付近にあったと考えられる。天照御魂神社の祭神のなかには藤原氏と関係の深い天児屋根命が含まれている。

弘安三年(一二八〇)三月日付の新屋庄雑掌申状(「兼仲卿記」弘安七年六月巻紙背文書)に、京都法成ほうじよう寺東北院領新屋庄雑掌が、庄官・百姓らが寺家の諸役に従わずに対捍するのを訴えている。次いで嘉元三年(一三〇五)頃の摂渡庄目録(九条家文書)に京都法成寺東北院領として新屋庄がみえ、免田一五町、年貢米五〇石で「御随身利方辞退之良信拝領之」と注記。暦応五年(一三四二)正月日付の同目録(同文書)にも同様の記載があり、給主(または預所か)は源大夫英長となっている。


新屋庄
にやのしよう

現柏原町西部の大新屋おおにやを遺称とし、同地の北方田路たじ辺りをも含んだ庄園。「にや」とよまれた(「言継卿記」永禄一二年一一月五日条)。古くからの皇室領庄園で、嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には室町院領とみえる。その後大覚寺統の所領として伝領され、戦国時代には上臈局領となっている。領家職は中御門家が有しており、建武四年(一三三七)冬定が宗重に譲与している(同年八月一一日「中御門冬定譲状案」南部文書)。なお長寛三年(一一六五)三月六日の藤原宗能譲状案(同文書)にも「新屋庄在丹波国」とあるが、この文書は中御門家が平安時代以来の領家であることを主張する作為的なものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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