日本歴史地名大系 「柏原町」の解説
柏原町
かいばらちよう
現柏原町の中央部東寄りに位置し、北は山陰道(京街道)で
天正一五年(一五八七)一〇月一六日の豊臣秀吉朱印状(加舎文書)に「かいはら村」とみえ、秀吉は丹波国内の杣人を組織するため六六人の諸役免除を野口五兵衛に命じており、そのうち柏原村は三人となっている。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となり(柏原藩史)、陣屋町の造営が開始される。当時の居館は八幡社の東麓に位置し、すでに形成されていた同社の門前町を町屋として取込む形で町を整備したと考えられる。正保郷帳に柏原町とみえ田高一千五二六石余・畠高一九五石余、ほかに綿・茶・藪役銀一五三匁、芝山・八幡山・「はへ山」・日損所ありと注記される。
柏原町
かいばらちよう
柏原町
かしわばらちよう
柏原町
かせばらちよう
柏原町
かしはらちよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報