柏原町(読み)かいばらちよう

日本歴史地名大系 「柏原町」の解説

柏原町
かいばらちよう

[現在地名]柏原町柏原

現柏原町の中央部東寄りに位置し、北は山陰道(京街道)多田ただ村、南は同じく見長みなが村に通じ、西は北流する柏原川を隔てて小南こみなみ村に対する。同村西方に当町下町の出戸下町沖田おきたがある(氷上郡志)。現町域の東部に横たわる譲葉ゆずりは(五四一・四メートル)から清水きよみず山に連なる山塊より南西方向に突き出た尾根の末端丘頂には柏原八幡神社が鎮座し、柏原七ヵ村の産土神として尊崇され、集落も同社を取巻くように発達している。

天正一五年(一五八七)一〇月一六日の豊臣秀吉朱印状(加舎文書)に「かいはら村」とみえ、秀吉は丹波国内の杣人を組織するため六六人の諸役免除を野口五兵衛に命じており、そのうち柏原村は三人となっている。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となり(柏原藩史)、陣屋町の造営が開始される。当時の居館は八幡社の東麓に位置し、すでに形成されていた同社の門前町町屋として取込む形で町を整備したと考えられる。正保郷帳に柏原町とみえ田高一千五二六石余・畠高一九五石余、ほかに綿・茶・藪役銀一五三匁、芝山・八幡山・「はへ山」・日損所ありと注記される。

柏原町
かいばらちよう

面積:三二・三三平方キロ

県の中央東端近くに位置し、北と西は氷上町、南は山南さんなん町、東は春日かすが町・篠山市と境を接している。東・西・南の三方を標高三〇〇―五〇〇メートル級の山に取囲まれ、町の中央部を北西に流れる加古川の支流柏原川の沿岸に狭小な盆地がある。一一世紀初めに創建された柏原八幡神社の門前町を母体とし、江戸時代には前後二期にわたる織田家の陣屋が置かれ陣屋町として栄えた。一七世紀の俳人田捨女(貞閑尼。一六三四―九八)は柏原の町役人田季繁の娘。産物としては仏掌芋(山の芋)・椎茸などの農作物が主であり、江戸時代には握り墨や斑紋竹・苗木の生産も有名であった(柏原叢志)

柏原町
かしわばらちよう

[現在地名]榛原町静波しずなみ

川崎町かわさきちよう村の北に位置する。「遠江国風土記伝」に「栢原の分地なり」とあり、江戸時代初期には柏原村に含まれた。元禄郷帳に町名がみえ、高二五八石余、掛川藩領(国立史料館本元禄郷帳)。享保郷村高帳でも掛川藩領であるが、寛政六年(一七九四)三卿の一橋領となり、同年の一橋家領郷村高帳写では高三二六石余。旧高旧領取調帳では掛川藩領。明治元年(一八六八)の五人組帳(笠原家文書)では家数二一九。

柏原町
かせばらちよう

[現在地名]亀岡市しの町柏原

城下町最東端にあり、西方は北流する年谷としたに川の橋で三宅みやけ町に通じ、東西に通る京街道(山陰道)に沿う町並で、長さ二八五間、東端は縄手七一間、幅一間一尺。

西端・南側角に三宅町分の屋敷二ヵ所があり、番役などは柏原へ勤め、その他の諸役は三宅町へ勤めたようである。この屋敷角から南へ折れた三宅橋詰に小家四軒があり、諸役御免であった。

柏原町
かしはらちよう

[現在地名]南区たに町七丁目

立半りゆうはん町の南に続く谷町たにまち筋の両側町で、「天保町鑑」に「谷町筋南の口、寺町境」とある。明暦元年(一六五五)には堀之外大黒ほりのそとだいこく町といい、延宝八年(一六八〇)に柏原町となった(南区志)。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数一九・役数二三役で、うち年寄分一役が無役。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報