大覚寺統(読み)ダイカクジトウ

デジタル大辞泉 「大覚寺統」の意味・読み・例文・類語

だいかくじ‐とう【大覚寺統】

鎌倉後期から南北朝時代持明院統と皇位を争った亀山天皇の系統。鎌倉幕府の干渉により一時は交互に皇位に就いたが、南北朝時代、吉野に南朝を立て、元中9=明徳3年(1392)北朝と合体。後宇多上皇大覚寺に住んだことによる名称。→持明院統

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精選版 日本国語大辞典 「大覚寺統」の意味・読み・例文・類語

だいかくじ‐とう【大覚寺統】

  1. 〘 名詞 〙 亀山天皇とその子孫の皇統。亀山天皇の長子後宇多天皇が譲位ののち、大覚寺を在所としたところからいう。また亀山天皇の兄、後深草天皇の一統を持明院統という。鎌倉幕府の干渉で両統は交互に天皇を立てた(両統迭立)。後醍醐天皇建武中興のときから、この皇統は南朝を称した。後亀山天皇のときに北朝の後小松天皇との間で南北朝合体が行なわれた。大覚寺殿。

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百科事典マイペディア 「大覚寺統」の意味・わかりやすい解説

大覚寺統【だいかくじとう】

鎌倉時代,後嵯峨法皇の死後,皇統が2分して対立抗争したが,そのうち亀山天皇の系統をいう。持明院統(じみょういんとう)の対。亀山天皇の子,後宇多天皇が譲位後,京都大覚寺に住んだのでこう呼んだ。この系統から後醍醐(ごだいご)天皇が出て南朝を樹立,南北朝合体まで後村上・長慶(ちょうけい)・後亀山と皇位についた。→南北朝時代両統迭立
→関連項目神蔵荘勘仲記玉葉和歌集後宇多天皇後小松天皇後嵯峨天皇後深草天皇後伏見天皇金剛寺新葉和歌集大覚寺長尾荘南朝二条家(歌の家)二条為世八条院領伏見天皇

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改訂新版 世界大百科事典 「大覚寺統」の意味・わかりやすい解説

大覚寺統 (だいかくじとう)

鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて皇位継承をめぐって争った二つの皇統のうち,亀山天皇の系統をいい,南朝につらなる。後深草天皇の系統を持明院統とよぶのに対し,亀山天皇の皇子後宇多上皇が嵯峨の大覚寺を再興して〈大覚寺殿〉と称したことから,この皇統を大覚寺統とよぶ。後嵯峨法皇の死(1272)後生じた皇位継承をめぐる争いに加え,皇室領荘園の領有をめぐる抗争から天皇家は二つに分裂し,鎌倉幕府の斡旋で両統から交互に皇位につく,いわゆる両統迭立を原則として,鎌倉時代後半を通じ両統の勢力均衡が保たれつつ対立がつづいた。文保の和談以降,大覚寺統の後醍醐天皇は天皇親政を積極的に推進してしだいに幕府と対立し,幕府倒壊後,建武中興政府を開いたが,やがて離反した足利尊氏のために京都を追われ,尊氏に擁立された北朝(持明院統)に対抗して,大和の吉野に拠って南朝をたてた。南北朝合一時の後亀山天皇を最後に,この皇統から皇位継承者が出ることはなかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大覚寺統」の意味・わかりやすい解説

大覚寺統
だいかくじとう

鎌倉中期に分裂対立した二皇統の一つ。亀山(かめやま)天皇の子孫の皇統をいう。後宇多(ごうだ)上皇が京都嵯峨(さが)の大覚寺で院政をみたのに始まる。幕府の干渉のもとに、後宇多天皇以後、持明院(じみょういん)統と交替で両統から皇位を継ぎ、幕府討伐、建武(けんむ)中興政治もこの皇統の後醍醐(ごだいご)天皇によって行われた。足利尊氏(あしかがたかうじ)が持明院統を擁して北朝を建てたのに対し、大覚寺統は南朝として対立し、後村上(ごむらかみ)天皇以後、長慶(ちょうけい)、後亀山(ごかめやま)と続いて、1392年(元中9・明徳3)ひとたび北朝と合体した。しかし合体条件が実行されなかったので、ふたたび分裂した。その後、南朝は大和(やまと)地方の山間命脈を保ち、その遺臣がしばしば乱を起こして勢力の回復を企てたが成功せず、ついに将軍足利義政(よしまさ)によって滅ぼされた。

[多賀宗隼]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大覚寺統」の意味・わかりやすい解説

大覚寺統
だいかくじとう

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位の継承権と所領の相続をめぐって争った2つの皇統の一つ。亀山,後宇多天皇の流れで,後深草,伏見天皇の持明院統と対抗。後宇多天皇が上皇となってから京都の北西郊の大覚寺に住んだのでこの名がある。鎌倉幕府は両統を交互に皇位につけるようはからったが,大覚寺統の後醍醐天皇の建武中興が失敗し,足利尊氏が持明院統の皇族をいただいて京都に君臨してからは,大覚寺統は南朝として大和の吉野山にこもった。元中9=明徳3 (1392) 年両統の合体後,南朝方のものは,合体条件が履行されていないとして再びこの皇統の皇族を奉じてしばしば乱を起したが,その都度,室町幕府により鎮定された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大覚寺統」の解説

大覚寺統
だいかくじとう

鎌倉~南北朝期に分裂した皇統のうち,亀山天皇の皇統。大覚寺を院御所とした。1272年(文永9)後嵯峨上皇が後継者を指名することなく没したのち,皇位・所領をめぐって後深草上皇の皇統である持明院統と対立。1317年(文保元)幕府の仲介で文保の和談がなされ,両統迭立(てつりつ)の原則によることが求められた。しかし以後も対立は続き,南北朝内乱期には吉野にあって,京都に拠る北朝(持明院統)と対立。1392年(明徳3・元中9)の南北朝合一によって,再び両統迭立の原則によることとなったが守られず,皇位を得ることなく衰えた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大覚寺統」の解説

大覚寺統
だいかくじとう

鎌倉・南北朝時代,皇位の継承をめぐって持明院統と争った亀山天皇の皇統
後宇多天皇が譲位後,京都の嵯峨野の大覚寺に住んだのでこの名がある。鎌倉幕府の干渉により,持明院統と両統交替で皇位についた(両統迭立 (てつりつ) )。後醍醐 (ごだいご) 天皇の建武の新政が崩壊し,足利尊氏が持明院統の光明天皇を擁立してから,南朝として後村上・長慶・後亀山天皇と続いたが,1392年持明院統の北朝と合体,南朝は滅亡した。

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世界大百科事典(旧版)内の大覚寺統の言及

【後南朝】より

…1392年(元中9∥明徳3)の南北両朝合一後に興った南朝系(大覚寺統)の朝廷。合一の条件〈両統の迭立(てつりつ)〉を北朝側(持明院統)の後小松天皇とこれを擁する足利義満とが履行しなかったため,これに不満な旧南朝の後亀山上皇は1410年(応永17)吉野に遷幸した。…

【八条院】より

…83年(弘安6)安嘉門院は死去,膨大な荘園は後堀河天皇の女室町院の手中に入ろうとした。しかし亀山上皇は関東に申し入れて八条院領の伝領承認を求め,幕府もこれを認めたので,この荘園群はすべて亀山の管領下に入り,大覚寺統の最大の経済的基盤となったのである。1302年(乾元1)亀山はいったんそのすべてを後宇多上皇に譲るが,05年(嘉元3)これを改め,庁分を後宇多に与えたのみで,他の御願寺領を後宇多の異母弟恒明親王に譲る。…

【文保の和談】より

…鎌倉後期,持明院統大覚寺統との皇位をめぐる抗争を拾収するために,幕府が介入して行った協議。幕府は,皇位をめぐる両統の抗争にまきこまれるのを回避するため,1317年(文保1)使者を上京させて,皇位継承のルールを両統の協議によって定めることを促した。…

【室町院】より

…しかし宗尊が関東の将軍となったので,一部を除き室町院の所領となった。後嵯峨は亀山上皇を室町院の猶子として,これを伝えさせようとしたが,室町院はむしろ伏見上皇にこの荘園群を伝領することとしており,1300年女院が死ぬと,大覚寺統と持明院統との間で激しい相論がおこった。亀山はこの所領を伝領した宗尊の女瑞子(土御門姫君)を永嘉門院として後宇多上皇の妃に迎え,室町院領を獲得しようとし,伏見は室町院の遺志をたてにとってこれと争った。…

【両統迭立】より

…鎌倉時代後半,天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争った時期に,妥協策として両統から交互に皇位につくとされた原則。後嵯峨法皇は第3子後深草上皇よりも第7子亀山天皇を愛し,後深草の皇子熙仁親王を退けて亀山の皇子世仁親王を皇太子に立てたが,承久の乱(1221)後鎌倉幕府が皇位継承問題に干渉することが多く,それを顧慮した後嵯峨法皇は死に際して後深草,亀山のいずれを〈治天の君〉(天皇家の惣領)とすべきかの決定を幕府の指示にゆだねた。…

※「大覚寺統」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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