新待賢門院(読み)しんたいけんもんいん

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「新待賢門院」の解説

新待賢門院(1) しんたいけんもんいん

1803-1856 江戸時代後期,孝明(こうめい)天皇生母
享和3年11月1日生まれ。正親町(おおぎまち)実光の娘。文政3年(1820)仁孝(にんこう)天皇の後宮にはいり,典侍となる。孝明天皇のほか2皇子,1皇女をもうけ,藤大納言と称した。嘉永(かえい)3年准三宮(じゅさんぐう)となり,院号をうけた。后妃制度上,最後の女院。安政3年7月6日死去。54歳。名は雅子(なおこ)。

新待賢門院(2) しんたいけんもんいん

阿野廉子(あの-れんし)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「新待賢門院」の解説

新待賢門院 (しんたいけんもんいん)

生年月日:1803年11月1日
江戸時代末期の女性仁孝天皇の宮人
1856年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新待賢門院の言及

【阿野廉子】より

…32年(元弘2)3月後醍醐天皇の隠岐配流に際しては三位内侍としてこれに従い,天皇還幸後,准三宮に叙せられ,建武政府の中枢にたびたび口入(くにゆう)することがあったといわれる。51年(正平6∥観応2)南朝において院号宣下をうけ,新待賢門院と称した。59年吉野で49歳で死去。…

【女院】より

…991年(正暦2)9月一条天皇の生母皇太后藤原詮子が病により出家したため,出家後の詮子の処遇が問題になり,皇太后を止め,改めて東三条院の院号を宣下し,太上天皇に准ずる待遇を与えたのが初例である。以後,1850年(嘉永3)2月,孝明天皇の生母藤原雅子が新待賢門院の院号を宣下されるまで,詮子も含めて女院号を授けられた者は107名(このうち2度院号宣下を被った者があり,院号例は108)である。 院号宣下は,初例の東三条院の場合は出家による后位の停廃に基づき,第2例の太皇太后藤原彰子も1026年(万寿3)1月出家により上東門院の号を授けられたが,第3例の禎子内親王が陽明門院の女院号宣下を被ったのは1069年(延久1)2月で,すでに出家から二十数年を経ており,以後,出家と女院号宣下は必ずしも関係はなくなった。…

※「新待賢門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

《「晋書」杜預伝から》竹が最初の一節を割るとあとは一気に割れるように、勢いが激しくてとどめがたいこと。「破竹の勢いで連戦連勝する」[類語]強い・強力・強大・無敵・最強・力強い・勝負強い・屈強・強豪・強...

破竹の勢いの用語解説を読む