朝日日本歴史人物事典 「阿野廉子」の解説
阿野廉子
生年:正安3(1301)
鎌倉・南北朝時代,後醍醐天皇の寵を受け,建武政権を支え,後村上天皇生母として南朝を支えた女院。阿野公廉の娘。後醍醐天皇中宮禧子の入内にともない,内侍となる。ほどなく後醍醐の寵愛を受けて,恒良親王,成良親王,義良親王(後村上天皇),祥子内親王,惟子内親王の3男2女を生んだ。後醍醐の乳母の夫の洞院公賢の養女となり,従三位に叙せられて,「三位殿の御局」と呼ばれている。『太平記』には,才色兼備で「殊艶」のみならず「便佞」であるので,後醍醐の数多い寵姫のなかでも一番のお気に入りで,どこに行くにも一緒であったと記している。内侍として,宮廷の内政に能力を発揮したと思われる。元弘の変(1331)によって後醍醐が隠岐に配流されたときも同行した。建武政権樹立後は准三后になり,恒良を皇太子に,祥子を斎宮に立てている。さらに末の6歳の義良を北畠親房に委ね,陸奥に旅立たせ,次に成良を足利尊氏・直義兄弟に預けて関東に行かせている。新政の2大勢力に2子を委ねざるをえなかったのであろう。のちに恒良・成良兄弟は,足利氏によって殺されたり,幽閉ののちに死んでいる。新政瓦解後,吉野にあって後醍醐を助け,その亡きあとは後村上を助けて南朝勢力の結集に努め,所領の安堵などを行っている。正平の一統(1351)という和議が成立したとき,朝廷において新待賢門院という女院となったが,南朝は京都を占領できず,賀名生行宮に逃げ帰った。 『太平記』は雌鶏朝を告げる例として,廉子を悪く書いている。北畠顕家の死に臨んでの上奏文も廉子を暗に非難している。しかし,後醍醐の片腕として,後村上を背後より支える力として,南朝において廉子の果たした役割は大きい。『新葉和歌集』『李花集』には廉子の和歌が収録されていて,心情あふれるものがある。<参考文献>佐藤進一『南北朝の動乱』,脇田晴子「阿野廉子」(『人物日本の女性史』5巻)
(脇田晴子)
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