阿野廉子(読み)あのれんし

改訂新版 世界大百科事典 「阿野廉子」の意味・わかりやすい解説

阿野廉子 (あのれんし)
生没年:1311-59(応長1-正平14・延文4)

阿野公廉の女。後醍醐天皇の妾。1319年(元応1)西園寺実兼の女禧子(のち後京極院)が後醍醐天皇中宮として入内するに際して,洞院公賢の養女としてその女房になり後宮に入った。容姿端麗で和歌の才に優れ,ひととなり聡敏であったといわれる。後醍醐天皇寵愛うけ,25年(正中2)に恒良(のち東宮),翌26年(嘉暦1)に成良,28年に義良(のち後村上天皇)の3親王の誕生をみ,ほかに2人の皇女を生んだ。これにより後宮に大きな勢力をなし,阿野氏の多くは南朝に参じた。32年(元弘2)3月後醍醐天皇の隠岐配流に際しては三位内侍としてこれに従い,天皇還幸後,准三宮に叙せられ,建武政府の中枢にたびたび口入(くにゆう)することがあったといわれる。51年(正平6・観応2)南朝において院号宣下をうけ,新待賢門院と称した。59年吉野で49歳で死去
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿野廉子」の意味・わかりやすい解説

阿野廉子(あのれんし)
あのれんし
(1311―1359)

後醍醐(ごだいご)天皇の後宮。父は阿野公廉。母は未詳。後村上(ごむらかみ)天皇および恒良・成良2親王、祥子・惟子2内親王らの生母。初め後醍醐天皇中宮禧子(後京極院)に侍したが天皇の寵(ちょう)を得て後宮に入り、従三位(じゅさんみ)に叙し、三后に准じられた。君寵を背景にして、ほしいままな行為があり、南北朝動乱の一因ともなったという。1351年(正平6・観応2)12月新待賢門院の女院号を受け、1357年落飾、1359年(正平14・延文4)4月29日南朝において没。大阪府河内長野(かわちながの)市観心寺および奈良県吉野郡川上村高原に廉子の墓と伝えるものがあるが、確かなものかどうか不明。

[村田正志]


阿野廉子(あののれんし)
あののれんし

阿野廉子

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿野廉子」の解説

阿野廉子 あの-れんし

1301-1359 鎌倉-南北朝時代,後醍醐(ごだいご)天皇の妃。
正安(しょうあん)3年生まれ。阿野公廉の娘。洞院公賢(きんかた)の養女。天皇の寵愛(ちょうあい)をうけ,後村上天皇,恒良(つねよし)親王,成良(なりよし)親王らを生む。天皇の隠岐(おき)配流にしたがい,建武(けんむ)新政府のもとで准三宮(じゅさんぐう)となり,権勢をほこった。吉野遷幸にも同行し,南朝から新待賢門院の院号をうける。「新葉和歌集」に20首のる。延文4=正平(しょうへい)14年4月29日死去。59歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阿野廉子」の意味・わかりやすい解説

阿野廉子
あののれんし

[生]応長1(1311)
[没]正平14=延文4(1359).4.29.
南北朝時代,後醍醐天皇の後宮。公廉の娘。後醍醐天皇の寵愛を受け,後村上天皇,恒良親王,成良親王の母。後醍醐天皇に従って隠岐,吉野におもむき,正平6=観応2 (1351) 年,新待賢門院の院号を受けた。『新葉和歌集』に 20首,『李花集』に数首の作歌収録。

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