タスマニア(読み)たすまにあ(英語表記)Tasmania

翻訳|Tasmania

日本大百科全書(ニッポニカ) 「タスマニア」の意味・わかりやすい解説

タスマニア
たすまにあ
Tasmania

オーストラリア南東部の州。面積6万7800平方キロメートル、人口45万6652(2001)。州都ホバートタスマニア島を中心にキング島、フリンダーズ島などにより構成される。これらの島はもとは大陸地続きであったが、氷期以後の海進(約1万年前)により大陸から分離した。タスマニア島の大部分山地高原で、低地は北岸と南東岸の一部に限られる。同国としては降水量が多く、全域が年500ミリメートルを超え、800ミリメートル以上の地域が70%を占める。最高峰オッサ山(1617メートル)を含む西部の山地は西風の影響でとくに降水量が多く、一部では1600ミリメートル以上に達する。中央部の高原を中心に氷河によって形成された湖が多く、水力発電などに利用される。州面積に占める森林面積の割合は41%で、同国最大である。同国に現存する有袋肉食獣としては最大のタスマニアデビル(体長1メートル余り)が生息することでも知られる。

 人口が全国の2.4%という小さな州で、同州経済の全国的比重は小さいが、キング島のタングステン(全国生産量の9割)、レニソン・ベルなどの錫(すず)(同6割)、ローズベリーの鉛・亜鉛・銀、マウント・ライエルの銅、サベジ・リバー鉄鉱石などの鉱産資源が重要である。また水力発電を背景にしたアルミニウムや亜鉛の精錬、豊かな森林資源を背景にした林業および製紙酪農リンゴなどの農牧業に特色がある。州間貿易での最大の移出入先はビクトリア州。海外輸出では日本が最大の市場で、鉱産物を中心に約4割を占める。

 1803年入植(流刑入植地)。1825年、当時のニュー・サウス・ウェールズ植民地から分離。1853年流刑植民地としての歴史を閉じ、1856年責任内閣制を伴う自治植民地となり、旧称バン・ディーメンズ・ランドVan Diemen's Landを現名称に正式に改称した。1901年他州とともにオーストラリア連邦結成に加わった。

[谷内 達]

先住民

1803年にイギリス人の手によってタスマニア島が初めて植民地化された当時の人口は3000から5000と推定されているが、その後、植民者による非人間的扱い、殺戮(さつりく)、そして文明のもたらした病気などにより、1835年には200人ほどにまで減少し、最後の純血タスマニア人が1876年に死んで全滅した。

 彼らはおよそ九つの部族に分かれ、おのおの一定のテリトリーをもっており、カンガルーをはじめとする哺乳(ほにゅう)動物の狩猟、植物や貝類の採集を行っていた。また数家族からなる20人から30人ほどのバンド(一団)を形成して、夏は内陸部、冬は海岸部で移動生活をしていた。彼らの技術水準は低く、武器は木製の槍(やり)と投げ棍棒(こんぼう)、ほかに粗雑なつくりの石斧(せきふ)や石ナイフ程度の道具しかなく、弓矢はもたなかった。家は、樹皮でつくる風よけ程度の簡単なもので、同じく樹皮を用いて海岸部を移動する船をつくった。

 彼らの外観はオーストラリア先住民と多少異なり、漆黒の肌に羊毛状の毛髪、短頭で幅広い鼻をもち、やや背が低い。また彼らの言語も、他のいかなる言語にも系統をたどれず孤立している。以上の事項からタスマニア人の起源に関して、メラネシア人が海路により移住してきたとか、東南アジアのネグリトに近いとか、さまざまな説がある。しかし最近では、かつてオーストラリアとタスマニアが陸路でつながっていたころに移住してきた人々の一部が、陸路の断たれたのちに孤立してしまった、という説が有力である。

[山本真鳥]

世界遺産の登録

タスマニア島南西部は1982年および1989年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「タスマニア原生地域」として世界遺産の複合遺産に登録された(世界複合遺産)。

[編集部]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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