新田中野村(読み)しんでんなかのむら

日本歴史地名大系 「新田中野村」の解説

新田中野村
しんでんなかのむら

[現在地名]伊丹市中野西なかのにし一―四丁目・中野東なかのひがし一―三丁目・中野北なかのきた一―四丁目・西野にしの一―八丁目・池尻いけじり三―四丁目・同六丁目・まつおか一―四丁目・奥畑おくはた三丁目・昆陽北こやきた一―二丁目・昆陽池こやいけ二丁目・東野ひがしの一―八丁目・瑞原みずはら一―四丁目・みずおか三―四丁目・みどりおか五―七丁目・中野なかの

昆陽村集落の北に開かれた新田村有馬ありま街道に沿う。正保国絵図(京都府立総合資料館蔵)では中村だが、正保郷帳は中ノ新田村とする。年貢免状(新田中野部落有文書)は初め小屋野沢田こやのさわだ新田で、寛文元年(一六六一)に新田村、元文二年(一七三七)に新田中野村になる。新田中ノ村(「元禄国絵図」内閣文庫蔵)・中野村(天保一四年「昆陽村絵図」昆陽農業協同組合蔵)・新田(享保一五年「池掛論所立会絵図」渡辺家蔵)ともよんだ。開発の由緒は寛永六年(一六二九)入植者の浅(阿佐)野孫左衛門・渡辺新右衛門らが昆陽庄字沢田の芝野開発を認められ、翌七年から孫左衛門池、左近右衛門池(大・小)、市右衛門池・次右衛門池・弥次右衛門池の六池を築造して沢田七〇石を開発した。昆陽村は本郷の者による開発を願ったが、孫左衛門らの申請は年来の願であるとして退けられた(「芝野開発につき昆陽村訴状」「同新田中野村返答書」新田中野部落有文書)。寛文一二年には小屋野沢田新田二八石余・同七七石余の年貢免状が別立てされている。同一五年初めて沢田一五二石余・野開九九石余の検地を受け、承応元年(一六五二)重ねて検地を受け高三二石余。寛文三年さらに検地を受け七七石余、以上合計三六二石余を新田村の古検高と称した(前掲返答書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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