日本大百科全書(ニッポニカ) 「日田騒動」の意味・わかりやすい解説
日田騒動
ひたそうどう
1870年(明治3)11月に日田県(現大分県)日田・玖珠(くす)二郡で起こった一揆(いっき)。長州藩脱隊騒動の脱走浪士らによる日田県庁襲撃の策動にも影響されて、日田郡五馬(いつま)筋の農民は、畑方租税の増額反対などを要求して、17日に蜂起(ほうき)し、庄屋(しょうや)宅などを打毀(うちこわ)した。6000~7000人に膨れ上がった農民は、19日から20日にかけて、郷兵、藩兵と衝突しながら、日田の町を中心に牢屋(ろうや)、地役人、庄屋、富豪宅などを激しく打毀した。さらに玖珠郡でも約3000人が蜂起した。この間、打毀は280軒にも達した。しかし、21日には鎮静に向かいやがて終息した。処刑者は死罪4人を含め18人。一揆の影響は豊後(ぶんご)国(大分県)全域に及び、12月に入ると各地で一揆が続発した。この騒動は、直轄県で発生した一揆であり、しかも浪士らの反政府策動とも関連をもっていたことで、政府に衝撃を与えた。
[近藤哲生]
『土屋喬雄・小野道雄編『明治初年農民騒擾録』(1953・勁草書房)』▽『大久保利謙監修『明治維新と九州』(福岡ユネスコ協会編『九州文化論集3』所収・1973・平凡社)』▽『日田市明治百年記念事業推進委員会編『天領であった日田市百年の歩み』(1968・日田市)』