日米和親条約締結地
にちべいわしんじようやくていけつち
[現在地名]中区日本大通
嘉永七年(一八五四)一月ペリーの率いるアメリカ東インド艦隊は再来航し、浦賀沖から小柴沖・本牧沖・神奈川沖・品川沖と湾内を北上し羽田沖にまで迫り、測量や威嚇砲撃を行い、条約締結の交渉を迫った。幕府は林
大学頭らを応接掛に任じ、浦賀(現横須賀市)で会見しようとしたが拒否され、横浜村の北端、駒形水神森近くの字駒形の地で交渉することになった。当地の百姓田辺嘉平治を立除かせた跡地に、前年浦賀に仮設した応接所をとりはずして、七間・六間から三間・四間までの計五棟の応接所が建設され、約三〇坪の応接用大広間、日米全権および随員用の付属室・事務室があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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