アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のサンフランシスコ・ジャイアンツ、クリーブランド・インディアンス、テキサス・レンジャーズ、サンディエゴ・パドレス、ニューヨーク・ヤンキース、アトランタ・ブレーブス、シアトル・マリナーズ、カンザスシティ・ロイヤルズで投手としてプレー。両リーグでサイ・ヤング賞(最優秀投手賞のこと)を受賞し、通算314勝をあげた。
9月15日、ノース・カロライナ州ウイリアムストンで生まれる。1958年、ジャイアンツに入団。1962年に大リーグ初昇格を果たし、当初はおもに救援として起用された。1966年にほぼ先発専任となると、21勝をマーク。1968年にはノーヒットノーランを達成し、1970年には23勝で最多勝も獲得した。投げる前に繰り返し帽子のつばや耳の後ろに指をもっていき、いかにもスピットボール(ボールに唾液(だえき)などの異物を付着させて投げる不正投球)を投げるような格好をして打者を撹乱(かくらん)した。しかし、引退まぎわまで証拠をつかまれることはなかった。1972年にインディアンスへ移籍すると、24勝で2回目の最多勝を獲得し、サイ・ヤング賞を受賞した。1975年の途中でレンジャーズにトレードされてからは短い周期でチームを転々とするようになったが、1978年にはパドレスで21勝して最多勝となり、2回目のサイ・ヤング賞にも選ばれた。1983年、マリナーズとロイヤルズで7勝14敗に終わると、同年限りで引退した。
22年間の通算成績は、登板試合777、投球回5350と3分の1、314勝265敗、セーブ11、防御率3.11、奪三振3534、完投303、完封53。獲得したおもなタイトルは、最多勝利3回、サイ・ヤング賞2回。1991年に野球殿堂入り。
[山下 健]
アメリカ海軍軍人。4月10日、現在のロード・アイランド州ニューポートに生まれる。父クリストファー・レイモンド、長兄オリバー・ハザード、次兄レイモンドも海軍軍人で、彼は三男。1809年海軍に入り、西インド、地中海、アフリカなど各地に勤務し、その間、1833年1月にニューヨークのブルックリン海軍工廠(こうしょう)の造船所長となり、1837年にアメリカ海軍最初の蒸気船フルトン号を建造、同年海軍大佐に昇進し、1841年に同海軍工廠司令官に就任した。蒸気船を主力とする海軍力の強化策を推進するとともに、士官教育の振興、灯台施設の改善などに尽力し、アメリカ海軍の近代化の基礎を築くことに貢献した。ついで1846~1847年のアメリカ・メキシコ戦争に参加、1852年3月東インド艦隊司令長官となり、日本開国の使命を与えられた。そして同年11月、フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦としてバージニア州ノーフォークを出航、ケープ・タウン経由シンガポール、香港(ホンコン)、上海(シャンハイ)、沖縄、小笠原(おがさわら)を経て、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)浦賀に入港した。久里浜(くりはま)で浦賀奉行(ぶぎょう)に大統領フィルモアの国書を手交し、開国を要求したが、翌年までの猶予を求められて退去した。同年10月30日(和暦9月28日)小笠原島を占領したが、これは本国政府の承認するところとはならなかった。翌1854年2月13日(嘉永7年正月16日)、ふたたび旗艦サスケハナ号以下軍艦7隻を率いて江戸湾金沢沖に至り条約締結を求め、3月31日(和暦3月3日)神奈川で林大学頭(だいがくのかみ)、井戸対馬守(つしまのかみ)、伊沢美作守(みまさかのかみ)、鵜殿民部少輔(うどのみんぶのしょう)らと日米和親条約を調印、さらに下田(しもだ)で日米和親条約付録に調印(1854年6月18日=嘉永7年5月22日)、下田・箱館(はこだて)2港を開き、漂流民保護、欠乏品供給、領事駐在、最恵国待遇などを決めた。帰途、琉球(りゅうきゅう)王国と通商条約を調印、香港に戻り、のちオランダを経て1855年1月11日帰国した。1858年3月4日、ニューヨークで死去。
ペリー日本遠征の公式記録として、フランシス・ホークスを編纂(へんさん)主幹として1856~1860年に刊行された遠征記3巻Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Sea and Japan, performed in the years 1852, 1853 and 1854(邦訳『ペルリ提督日本遠征記』)があるが、これとは別に、ロジャー・ピノーによって1968年に刊行された『ペリー日本遠征私日記』The Japan Expedition 1852~1854, The Personal Journal of Commander Matthew C. Perryがある。
[加藤榮一]
『土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』全4冊(岩波文庫)』
イギリスの工学者。アイルランドに生まれる。ベルファスト市の小学校を終了後、製図や模型製作に従事した。1868年クイーンズ・カレッジに入学、工学を修めた。1870年優秀な成績で卒業、金メダルを得た。イングランドに移ってブリストル市のクリフトン・カレッジで数学、物理学の教師を務めた。1874年にグラスゴー大学のW・トムソン(ケルビン)の助手となり、1875年(明治8)には日本の工部大学校(現在の東京大学工学部)の助教授となり、数学を教えた。当時日本では一般には知られていなかった方眼紙を紹介して広く使用させた。在日4年ののちイギリスに帰り、クイーンズベリの技術大学で数学、機械工学、電気工学を教えた。のちにロンドン・テクニカル・サイエンス教授となり、力学、数学を教えた。ロイヤル・ソサイエティー会員、物理学会会長などを務め、1920年健康を害し、保養のため南アメリカに渡ったが効果なく、帰国後没した。
[中山秀太郎 2018年8月21日]
アメリカの哲学者。プリンストン大学卒業後、ハーバード大学で学位をとる。1902年より44年間ハーバード大学で哲学を教える。新実在論の立場にたち、自然主義的な価値論を展開した。彼によれば、外界は人間の心とは独立に実在しており、心に直接提示されることによって外界の認識が成立する。また価値に関しては、価値があるということは、関心がもたれることである、という。さらに彼は、個々人の積極的関心の調和を最高善と考え、個人の意志と社会の意志の反省的同意を説いた。著書に『一般的価値論』(1926)、『ウィリアム・ジェームズの思想と性格』(1935)、『ピューリタニズムと民主主義』(1935)、『価値の領域』(1954)などがある。
[魚津郁夫 2015年10月20日]
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アメリカの海軍将官。日本開国の先駆者,最初の日米条約の締結者。ロード・アイランド州サウス・キングストンに海軍一家の三男として生まれる。1809年,海軍に入り,兄オリバーOliver Hazard Perry指揮下の砲艦勤務を振出しに,1812年英米戦争に参加,その後アフリカ,西インド諸島,地中海方面で海賊鎮圧などに従事。33-41年,海軍教育の改革に尽力,海軍の近代化を強力に唱え,1837年アメリカ最初の蒸気軍艦フルトン2世号の艦長になる(のち〈蒸気船海軍の父〉といわれる)。43年アフリカ艦隊司令官として奴隷貿易禁圧に従事。米墨戦争ではメキシコ湾艦隊副司令長官として指揮をとり,手柄をたてた。
52年,東インド艦隊司令官(准将)に任命,大統領フィルモアから親書を託され日本遠征を命じられる。訓令では,日本人との条約交渉において〈断固とした決然たる態度〉が必要としつつも,なるべく〈平和的〉手段にとどめるよう制約を課していた。ペリー自身,時代の膨張思潮マニフェスト・デスティニーを体現し,日本を欧米キリスト教文明の恩恵に浴させることこそアメリカの歴史的使命だと確信していた。日本について周到な調査研究のうえ,旗艦ミシシッピ号ほか3隻を率いて琉球,小笠原諸島に寄港したのち,53年7月浦賀沖に投錨。幕府は江戸湾からの退去を要求したが,ペリーは峻拒,〈体面〉を重んじて最高位の日本役人との面会を強要,軍隊上陸を示唆して威嚇した。しかし結局,大統領親書を手交しただけでいったん退去した。翌54年2月再び江戸湾に来航,軍艦7隻の威を借りて交渉した結果,3月31日,神奈川条約が調印された。同条約では,下田・箱館の開港,薪炭の供給,遭難船員の保護,領事駐在の約束などを認めただけで,通商条項は含まれていない。遠征中ペリーは高度の戦略的観点から琉球の占有を具申して,本国政府に却下されたが,55年帰国後も太平洋支配をめざすイギリス,ロシアの勢力拡張や闘争について警告した。彼の膨大な《遠征記》(1856)には,日本の経済大国化や日米通商競争を予言するなど,日本人の特性への鋭い洞察が散見される。
→開国
執筆者:麻田 貞雄
アメリカの哲学者。バーモント州のポールトニーに生まれ,プリンストン大学とハーバード大学で学び,1902年から46年までハーバード大学で教えた。アメリカ思想史の研究者でもあり,特にW.ジェームズ研究の権威で,《ウィリアム・ジェームズの思想と性格》2巻(1935。1936年度のピュリッツァー賞受賞)の著者としてもよく知られている。ペリーの哲学的立場はみずから〈新実在論〉と称しているもので,論理学,数学および自然諸科学において究明される実体は心的なものではなく,認識する精神とは独立に存在し,それらの実在性は認識のされ方にはまったく依存しないと説く。ペリーらの新実在論運動は伝統的観念論哲学を激しく攻撃し,さらにプラグマティズム運動とも批判的にかかわりながら,〈アメリカ哲学の黄金時代〉を飾った。
なお,彼は倫理学および広く価値論一般に最も大きく貢献し,その分野で特に著名である。著書にはアメリカ思想史,W.ジェームズに関するもののほかに,《新実在論》(1912,ペリーを含む6人の新実在論者たちの共著),《価値の一般理論》(1926)などがある。
執筆者:米盛 裕二
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(内海孝)
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1794.4.10~1858.3.4
アメリカの海軍軍人。米国初の蒸気軍艦を建造して「蒸気船海軍の父」とよばれる。1852年東インド艦隊司令長官となり,遣日特使として53年(嘉永6)6月,軍艦4隻を率いて浦賀に来航。蒸気艦の来航は鎖国体制に大きな衝撃を与えた。久里浜で修好通商を求めるフィルモア大統領親書を伝達し,再来を表明して退去。翌年1月,軍艦7隻を率いて再渡来,江戸湾深く航行して幕府に圧力をかけた。ペリーの要求により横浜応接所で開かれた日米会談では幕府の譲歩をかちとり,日米和親条約の締結に成功。帰途,那覇で琉球と修好条約を締結。帰国後「日本遠征記」を監修。
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1794~1858
アメリカの海軍軍人。アメリカ東インド艦隊を率い,外交任務を与えられて,1853年浦賀に来航,日本に開国を迫り,翌年再び来航して横浜で日米和親条約を結んだ。
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
… 対外的危機を訴えた林子平や渡辺崋山,高野長英らにより,蝦夷地とともに開拓することが説かれたが,1823年(文政6)アメリカの船員が母島に上陸し,27年にはイギリスの艦船が父島に寄港して領有を宣言した。次いで30年(天保1)にはアメリカ人セボリーらがハワイ系住民20人をつれて移住し,53年(嘉永6)にはペリーが日本渡航のさい寄港してセボリーをアメリカの植民政府長官に任じ,貯炭所の敷地購入などを行った。このため米英間に諸島の帰属問題をめぐって紛議が生じたが,幕府は62年(文久2)ようやく外国奉行らを派遣して日本領たることを宣言し,八丈島民30余人を移住させて開拓に当たらせようとした。…
…対外的に鎖国をつづけていた封建日本が,欧米の先進資本主義列強に近代的な国交・通商関係を強いられ,不平等条約の締結を起点として資本主義的世界市場と近代国際政治のなかに従属的に包摂されたこと。
[条約の締結]
日本の開国は,1853年7月(嘉永6年6月),浦賀に来航したペリー提督が率いる蒸気艦隊に威圧された幕府がまずアメリカ大統領国書を受領し,翌年(安政1)3月,再度来航したペリーとのあいだに日米和親条約(神奈川条約)を締結したのを発端とする。以来,幕府は,イギリス,ロシア,オランダとも和親条約を結び,外国船の寄港と補給のために下田,箱館,長崎などを開港したが,なお自由な通商貿易を認めてはいなかった。…
…それに,1816年のイギリス艦隊の来航を皮切りにイギリス,フランス,オランダ,アメリカ,ロシアなど異国船の来航が相次ぐようになり,内憂にさらに外患が加わった。1853‐54年にアメリカ艦隊を率いて4度も琉球に来航したペリー提督は,武力を背景に開国,通商を迫った。これに対して琉球は言を左右して抵抗したが,ついにアメリカとの間に琉米修好条約(1854)の締結を余儀なくされた。…
※「ペリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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