神奈川県横須賀市(よこすかし)の東部、浦賀水道に臨むリアス海岸の湾入による浦賀湾岸一帯の地区。旧浦賀町。京浜急行電鉄が通じる。江戸時代は東浦賀、西浦賀、西浦賀分郷に三分されていた。浦賀は元来天然の良港で、北の走水(はしりみず)や南の久里浜(くりはま)とともに三浦半島から房総半島へ渡る要地をなしていた。1720年(享保5)ここが江戸湾防衛の拠点とされ、それまで伊豆の下田(しもだ)にあった奉行所(ぶぎょうしょ)と番所が浦賀(西浦賀)へ移され、江戸の関門として相模(さがみ)湾、浦賀水道、江戸湾など広く海上の取締りを行うこととなった。そして江戸湾への出入船舶はすべてここへ寄港し、乗組員や積み荷の検査も義務づけられることとなり、港はいつも多くの船でにぎわい、湾岸には廻船(かいせん)問屋や干鰯(ほしか)問屋が軒を連ね、活況を呈した。さらに1853年(嘉永6)アメリカのペリー提督が軍艦4隻を率いて来航し、幕府に開国を迫って以来、浦賀奉行は沿岸警備も担当し、国防・幕政上にも大きな役割を果たすこととなった。明治に入り横須賀が日本海軍の基地となると、ここには1900年(明治33)浦賀船渠(ドック)会社(現、住友重機械工業)が設けられ、造船の町、造船工の居住地として発展し現在に至っている。西浦賀の奉行所跡には、周囲の堀の石垣と正門に架けられていた石橋が残され、町並みには土蔵が多くかつての盛時をしのばせる。奉行所関連の資料などが浦賀文化センターに展示されている。また、西浦賀の西叶(にしかのう)神社の祭礼には虎踊(とらおどり)(県指定無形民俗文化財)が奉納される。
[浅香幸雄]
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神奈川県横須賀市,三浦半島東端の地名。近世初期までは浦河ともいう。入江が深く切れこみ水深がある天然の良港。戦国期は後北条氏水軍の根拠地。江戸時代は一貫して幕領。1720年(享保5)幕府が江戸湾船改のため浦賀番所を設置,江戸湾海路の要所となる。1853年(嘉永6)アメリカ海軍ペリー提督が入港し,開国を要求,以後江戸防衛の拠点となる。同年,幕府は初の西洋式の浦賀造船所を建設。その後造船工業港として今日に至る。
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…さらに綿作の他地方への普及,および菜種・藍作,果樹栽培の展開に伴って播磨,丹波,伊賀,近江,阿波の国々へ販路を拡張した。一方,近世初頭以来,関西漁民の出稼漁によって開拓されたとされる房総地方産の魚肥は,はじめ上方への輸送の中継基地としての浦賀に1642年干鰯問屋が公許されたが,元禄期(1688‐1704)を境とした出稼漁の衰退とともに落した。これに代わって関東の地元漁業と結びついて台頭した江戸の干鰯問屋は,深川の4ヵ所(銚子場,永代場,元場,江川場)に干鰯揚場を設け,1739年(元文4)株仲間の公認をうけ,43軒が登録されている。…
…神奈川県南部,三浦半島の大部分を占める市。浦賀水道をはさんで房総半島に対する。1907年横浜市に次いで県内2番目に市制をしき,1933年海軍からの要請で,隣接の田浦町,衣笠(きぬかさ)村を合併,その後も久里浜村,逗子町,浦賀町などを合併して市域を拡大し,第2次大戦後,50年に逗子が分離・独立し,現在の市域となった。…
※「浦賀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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