明知村(読み)あけちむら

日本歴史地名大系 「明知村」の解説

明知村
あけちむら

[現在地名]明智町 市場町いちばちよう宮町みやまち本町ほんまち常盤町ときわまち新町しんまち徳間とくま向町むかいまち的場町まとばまち東町ひがしまち東山町ひがしやまちよう荒井あらい駅前町えきまえちよう滝坂住宅たきざかじゆうたく大久手おおくて

矢作やはぎ川支流の明智川に沿った小盆地にあり、東西の中馬ちゆうま街道と南北を結ぶ街道が交差し、中馬の中継宿場を兼ねていた。遠山氏の祖加藤次景廉の孫景重が宝治元年(一二四七)明知城を築城し、以後明知遠山氏を称したという。暦応三年(一三四〇)二月一〇日の覚心譲状写(遠山文書)に「山よりミなミあけち」とあり、遠山とおやま手向とうげ郷のうちで、遠山朝廉から孫景房に譲られている。明徳元年(一三九〇)七月一七日の足利義満袖判御教書写(同文書)では、「遠山庄手向郷之内明智上下村」などの地頭職が遠山頼景に安堵されており、以後永正八年(一五一一)景保まで代々所領を受継いでいる。


明知村
みようちむら

[現在地名]三好町明知

現町域の南端で逢妻女あいづまめ川の北にある。おお池・細口ほそぐち池・しん池・多羅釜たらがま池・清水しみず(弁天池)いりヶ池・うらノ池・伊八いはち池・後田うしろだ池・行者ぎようじや池・おお池・長三郎ちようざぶろう池・割田わりた池・火尻ひじり池・山田やまだ池・直一なおいち池・光二こうじ池・池・松葉まつば池・ふたッ池・大塚おおつか池・狭間はざま池・松狭間まつはざま池の二三の溜池がある。「西加茂郡誌」によれば、字下屋敷しもやしきに面積二五アールの城塁跡が残り、原田下総守親種の居城と伝える。

近世初めは岡崎藩領、慶長五年(一六〇〇)刈谷藩領、元和元年(一六一五)幕府領、同七年西尾藩領、万治二年(一六五九)幕府領、天和元年(一六八一)伊保藩領、宝永七年(一七一〇)刈谷藩領、正徳二年(一七一二)幕府領、享保三年(一七一八)旗本巨勢丹波守由利領、宝暦一三年(一七六三)西大平藩領となり明治維新に至る。


明知村
あけちむら

[現在地名]春日井市明知町

神屋かぎや村の北にあり、した街道に沿う。「府志」に「日本武尊東夷征罰之時、道経歴濃陽之日聞建稲種公訃嘆曰現哉、依号其地謂宇津津、至今書内津之縁也、然後発駕之時夜已明矣、是故呼其地称明知」とある。下街道に依存した地で、馬屋をもった家が街道に沿って散在し、馬車・牛馬を一時預って手間賃を稼いだ。牛馬の踏んだ藁と下肥は田畑肥料とした。

寛文一一年(一六七一)の家数四三、人数二一八(寛文覚書)。慶応二年(一八六六)の村の諸事書留帳(市所蔵)には、戸数一四七のうち兼業農家六一で、その内容は馬追一五、瀬戸物商八、荷馬車五、質屋・飲食・大工各三などとなっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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