1764年(明和1)12月に江戸幕府によって,従来の慣行を公認された信濃の百姓の駄賃稼の牛馬による運送業務。このとき信濃各郡における中馬稼村,稼馬数が定められ,各街道における稼ぎの内容も決められた。村数679村,中馬数1万8768匹が村別に裁許状に記されている。中馬数は伊那郡に42%,諏訪郡に25%,安曇郡に17%,筑摩郡に14%と信濃南部4郡(現,7郡)に98%が集中している。このうち松本町から飯田町に至る間が中馬の特権も強く,輸送される荷数も多かった。松本から飯田への輸送はさらに南に延び,名古屋,岡崎,新城,吉田(現,豊橋市)に至る間も中馬の活動範囲であった。中馬は古く1670年代(寛文ごろ)には手馬といわれて自分馬による自分荷の運搬であったが,90年(元禄3)ごろには中馬と呼ばれ,遠距離の駄賃稼が行われていた。江戸時代の荷物の輸送は河・海の舟運を主体としたが,五街道はじめ諸藩の設けた街道筋では,公の伝馬役をつとめる宿馬が二つの宿場の間だけを輸送し,荷主は宿場ごとに駄賃・問屋場口銭を払い,馬を替えるのが普通であった。公の通行のあるときには継馬を得ることも困難であった。中馬の活動範囲にも,中山道・甲州道中の延長部分の北国街道では中馬荷物も制限され,口銭も課されたが,飯田藩の設けた宿場しかない飯田街道では中馬の力が強く,松本への600駄,上・下諏訪への800駄を宿場助成のため宿継ぎとするほかは,中馬の自由な稼ぎが認められた。飯田から松本への1764年の輸送量は年間9600駄,諏訪へは1200駄である。
中馬は宿場口銭を支払わず,宿場での馬替えもしないで付け通しを認められた。松本と東海道諸都市間の輸送荷物は,松本・飯田間,飯田・東海道諸地間をそれぞれ1人の中馬追いが運び,飯田には荷問屋があって替馬の世話をした。中馬運賃は到着先で支払うことが多く,荷預りのさい荷物代金の7割ぐらいを敷金と称して支払う慣行があり,荷の積替えが少ないため荷傷みも少ない。さらに水害等のさい通路を自由に選ぶことが許された。中馬追いはふつう1人で3,4頭の馬を追い,1回に100貫前後の荷を運んだ。舟路のない信濃に発展した商品輸送の方法として,信濃各地の商品生産と流通の発展に大きく寄与した。
執筆者:古島 敏雄
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近世信濃(しなの)(長野県)において行われた駄馬による陸上輸送手段。信濃では中山道(なかせんどう)、甲州道中、北国(ほっこく)街道、北国脇(わき)街道、伊那(いな)街道、糸魚川(いといがわ)街道、飛騨(ひだ)街道があり、宿場は五街道ほどには整備されていなかった。近世初頭から農民の駄賃(だちん)稼ぎと城下町での物資の販売は行われていたが、しだいに南西部の諸郡で輸送業者が発生し、信濃以外に、尾張(おわり)、三河、美濃(みの)、甲斐(かい)、江戸、駿河(するが)、相模(さがみ)にも進出した。特色は付け通しであったから宿場の問屋と中馬が対立し、1673年(延宝1)、93年(元禄6)に幕府評定所(ひょうじょうしょ)は伊那街道での中馬の商人荷物運送を慣行として認めた。1739年(元文4)に諏訪(すわ)、伊那郡の中馬村が甲州道中六か宿と口銭(こうせん)徴集をめぐって訴訟になり、翌年内済(ないさい)し従来どおり相対(あいたい)となった。ついで1764年(明和1)には裁許の結果、街道ごとに中馬荷物の品目を定め、その他は宿継(しゅくつぎ)荷物とし、中馬運送の宿場口銭も定められ、中馬村も一村ごとの馬数が一定された。松本から飯田への伊那街道が中心である。馬数は伊那郡7849疋(ひき)、諏訪郡4680、安曇(あずみ)郡3178、筑摩(ちくま)郡2525、小県(ちいさがた)、高井、埴科(はにしな)、更級(さらしな)の諸郡は少なく、佐久郡はない。総数1万8614疋である。中馬と宿の対立はその後も継続した。明治維新後には、中馬は中牛馬会社、宿は陸運会社となり対立したが、1873年(明治6)両社合併し、前者が運送にあたり、後者が荷問屋となった。
[藤村潤一郎]
『『古島敏雄著作集 四 信州中馬の研究』(1974・東京大学出版会)』
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江戸時代,信州地方で物資輸送の主力をになった馬方。農間を利用した自分の荷物の運搬に始まったが,のち駄賃稼ぎで専業化するものもあった。宿継ぎを義務づけられた伝馬(てんま)と違って,付通し運送をするため,廉価で荷傷みも少なかったが,素通りされる宿場との間にしばしば紛争をおこした。1673年(延宝元)の幕府裁許で伊那街道の活動が公認され,1764年(明和元)の裁許では,中山道や糸魚川街道・北国街道など信濃全域に広がり,中部山岳地帯と太平洋側・日本海側を結びつける活発な活動を展開した。
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…しかし,一般庶民の利用はまれで,ことに車両を引かせる風はほとんど行われず,もっぱら貨物を駄載運搬するにとどまり,それも関所のない脇(わき)街道を荷を積み替えずに往来することを中心として利用された。信州を主とする中馬(ちゆうま)交通や会津地方の中付駑者(なかつけどしや)と呼ばれた駄馬がそれである。この点は馬車を使用したユーラシア大陸の馬の利用とおおいに異なる形であり,これが現代に至るまで日本の道路の形態に大きな影響を及ぼした。…
…したがって,塩の流通網は古くから組織されていた。富山県から長野県へは歩荷(ぼつか)と呼ぶ徒歩の運搬業者により,愛知県三河地方から長野県にかけては中馬(ちゆうま)という制度によって運ばれたし,東北の南部地方へは野田ベコと呼ばれるウシを使った業者があたった。こうした業者のいなかったところは,塩売という行商的な小売商人がいて,専売法施行までその流通を支えてきた。…
…なかでも松本は中南信さらに表・裏日本の多様な物資の集散地として発達し,1725年町家1233軒,2351世帯,8206人,武家6072人と合せて1万4000人に達した。飯田も中馬(ちゆうま)稼ぎと結合して繁栄し,1705年(宝永2)町家562戸,4483人を数えた。東北信の中枢市場は門前町兼宿場町の善光寺町で,1721年5000人,幕末1万人にのぼった。…
※「中馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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