星野長太郎(読み)ホシノ チョウタロウ

20世紀日本人名事典 「星野長太郎」の解説

星野 長太郎
ホシノ チョウタロウ

明治期の実業家 上毛繭糸改良会社頭取;衆院議員(大同倶楽部)。



生年
弘化2年2月3日(1845年)

没年
明治41(1908)年11月27日

出生地
上野国勢多郡水沼村(現・群馬県勢多郡黒保根村)

経歴
上野国水沼村(現・群馬県黒保根村)の地主で繭糸商を営む家の長男として生まれる。明治7年県の出資を受けて初の民間器械製糸である水沼製糸場を創業。9年には実弟である新井領一郎をニューヨークに派遣して民間初の生糸直輸入を試みたが、水沼製糸場の生糸だけでは少量のため、村内の座繰り上げ糸の仕上げ工程を共同する結社を作り、生糸の大量出荷を図った。13年群馬県下の製糸結社を統合した上毛繭糸改良会社を創設、頭取に就任し、群馬蚕糸業発展の基礎を築く。また群馬県議、副議長も務め、37年衆院議員に当選、1期務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「星野長太郎」の解説

星野長太郎

没年:明治41.11.27(1908)
生年:弘化2.2.3(1845.3.10)
明治期の製糸業改良家,生糸直輸出運動家。上野国勢多郡水沼村(群馬県黒保根村)出身。桐生向け賃挽糸を商っていたが,官営富岡製糸で技術を習得し,明治6(1873)年水沼製糸所(32釜,初の民間器械製糸)を開設。しかし単独での生産は少量すぎたため,付近の農家製座繰糸の仕上げ工程(揚返)を10年に共同化(製糸結社亘瀬組)して輸出向け捻造糸の大量集荷と米国での試売に成功。前橋の士族らも合流し,13年荷為替取組開始を待って,星野を頭取とする直輸出の上毛繭糸改良会社が組織され,群馬蚕糸業発展の礎石となった。熱心なギリシャ正教信徒でもあった。<参考文献>群馬県蚕糸業史編纂委員会編『群馬県蚕糸業史』,『横浜市史』4巻上

(大島栄子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「星野長太郎」の解説

星野長太郎 ほしの-ちょうたろう

1845-1908 明治時代の製糸業者,政治家
弘化(こうか)2年2月3日生まれ。上野(こうずけ)水沼村(群馬県黒保根村)の人。明治7年水沼製糸所を創業。村内の座繰り糸の仕上げ工程を共同化して生糸の大量出荷とアメリカでの販売をこころみた。13年上毛繭糸改良会社を創立し頭取。37年衆議院議員。明治41年11月27日死去。64歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の星野長太郎の言及

【座繰】より

…こうした仕上工程の集中は,座繰小経営が連合して行う場合と生糸商人によってなされる場合とがあった。 座繰小経営による製糸結社の嚆矢(こうし)は77年に群馬県南勢多郡の豪農星野長太郎らが結成した亙瀬組(1878年旧前橋藩士族らとの精糸原社へ発展)であり,その影響を受けて同県碓氷郡でも78年に碓氷座繰精糸社(1879年碓氷精糸社へ発展,84年碓氷社と改称)が結成され,80年には同県北甘楽郡で北甘楽精糸社が結成された。前橋町生糸商も1879年に昇立社・天原社などの揚返所を設け,福島県郡山町の生糸商は共同で正製組(1880)や真製組(1881)を設立した。…

※「星野長太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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