日本大百科全書(ニッポニカ) 「大同倶楽部」の意味・わかりやすい解説
大同倶楽部
だいどうくらぶ
(1)明治時代前期の自由党系の政社。1889年(明治22)3月、後藤象二郎(しょうじろう)が黒田清隆(きよたか)内閣に逓(てい)相として突如入閣したため、後藤の提唱した大同団結運動は混乱し、運動方針をめぐって政社派と非政社派に分裂した。前者は政社として政治運動を展開することを主張、5月10日東京に3府36県の地方団体の代表を集めて大同倶楽部を結成した。国権独立、責任内閣制、財政整理と民力休養、地方自治の完成、言論集会の自由などの実現を掲げ、河野広中(こうのひろなか)、末広重恭(すえひろしげやす)、大石正巳(まさみ)らが中心となった。後者は、非政社の交際会として大同協和会を結成して、大井憲太郎(けんたろう)、新井章吾(あらいしょうご)らをその指導者とした。両派は各地でそれぞれ懇親会や演説会などを開き、全国的な運動を展開し、とくに大隈重信(おおくましげのぶ)外相の条約改正案には両派が提携して反対運動を推進した。90年5月旧自由党各派の糾合を目ざした板垣退助(いたがきたいすけ)らによる愛国公党の結成にはあえて参加せず、7月の第1回総選挙では60余名を当選させたのち、8月17日に解党。9月15日それまでに解党していた再興自由党(大同協和会系)、愛国公党、九州同志会などとともに立憲自由党を結成した。
(2)明治時代後期の官僚系の政党。1905年(明治38)12月3日、第22議会の開会を前に、帝国党を中心に甲辰(こうしん)倶楽部、自由党、無所属議員の一部が合同して結成。日露戦争中の議会が政友会・憲政本党の二大政党中心に運営されたことに反発し、戦後経営に一定の影響力を保持することを期した。行財政の整理、陸海軍の充実、満韓経営の推進、農商工業の振興など、戦後経営の実現を標榜(ひょうぼう)し、所属議員は76名を数え、佐々友房(さっさともふさ)を中心に臼井哲夫(うすいてつお)、安達謙蔵(あだちけんぞう)らを幹部とした。第22議会では西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣を支持し、予算案はじめ重要法案の成立に寄与した。しかし06年9月の佐々の死を転機に幹部・非幹部派の対立が表面化、安達謙蔵らが収拾にあたり、以後指導権を握った。第23議会では当初与党的立場をとるが、郡制廃止法案が上程されると官僚派の利害を代表して憲政本党とともに反対の立場をとり、さらに第24議会では増税法案や郡制廃止法案に反対して野党色を強めた。しかし、08年5月の第10回総選挙では所属議員が30名に激減。7月に成立した第二次桂(かつら)太郎内閣の与党となり、農商務相大浦兼武(かねたけ)の裏面からの支援を受けて非政友合同を画策した。しかし工作の中心人物臼井哲夫らが、09年に発覚した日糖事件に連座し有罪となったため運動は停滞した。第26議会では桂内閣が多数党の政友会と提携して議会運営を図ったため、ふたたび小党間の合同機運が再燃し、議会中の10年3月1日に戊申(ぼしん)倶楽部、無所属議員の一部と合同して中央倶楽部を結成した。
[宇野俊一]