水沼村(読み)みずぬまむら

日本歴史地名大系 「水沼村」の解説

水沼村
みずぬまむら

[現在地名]倉淵村水沼

碓氷うすい郡に属し、東はからす川を境にして群馬郡三野倉さんのくら村、西南端は相間あいま川上流をもって川浦かわうら村と接し、北は岩氷いわこおり村、南は上増田かみますだ(現碓氷郡松井田町)上秋間かみあきま(現安中市)上里見かみさとみ(現榛名町)。相間川はけんの峰より発し、次郎石じろういし滝・せんふち滝などがある。烏川沿いに県下の後期弥生時代の代表的遺跡水沼遺跡がある。永禄一〇年(一五六七)四月一六日付武田信玄書状写(「新編会津風土記」所収)によれば「水沼」が浦野宮内左衛門・能化丸に与えられており、天正七年(一五七九)にも同氏領(同年三月一八日「武田勝頼定書写」同書所収)

寛永八年(一六三一)には幕府領で、検地があった(天保九年「村明細帳」倉淵村役場蔵)。寛永二〇年の年貢割付状(塚本文書)では高二一〇石、田方五町六反余・畑方二四町九反余。元禄九年(一六九六)の入会山年貢定納方達(塚越文書)によると川浦地内川浦山の山年貢は永二貫文。前掲村明細帳によれば延宝八年(一六八〇)には山検地があった。


水沼村
みずぬまむら

[現在地名]石巻市水沼

上品じようぼん山と雄勝おがつ峠とを結ぶ山嶺のほぼ中央南麓に立地。南西は高木たかぎ村、南は真野まの村に接し、真野川の上流が集落の南東部を囲繞する。「一松壱本 廻八尺 水沼と申沼有之節、沼ノ潟沼と申候よし、当時田中ニアリ」(牡鹿郡万御改書上)という地名由来伝承を残す。正保郷帳に田三五貫四八九文・畑八貫三八一文とあり、雑木山と注記される。「牡鹿郡万御改書上」によれば、元禄年間(一六八八―一七〇四)には東西二〇町、南北一里二六間、田六三貫五八五文・畑七貫九四二文、うち新田二八貫七三四文、人頭三七人、男四六三・女四〇九、給人は田村織部ら三人。「封内風土記」の戸数九二。字亀山畑かめやまばたけの亀山兵一家には、各年次の水沼村当人数当改牒控が残り、享保一〇年(一七二五)には人頭三八人・名子一三人で、寛政一〇年(一七九八)には人頭は一〇九人に増加、名子は四人に減少した。


水沼村
みずぬまむら

[現在地名]黒保根村水沼

下田沢しもたざわ村の東、上田沢村の南に位置し、南は渡良瀬川を隔てて八木原やぎはら村。渡良瀬川右岸沿いに銅山あかがね街道が通る。寛文郷帳によると田方一一石余・畑方一四八石余、館林藩領。寛文一〇年(一六七〇)の年貢割付状(「勢多郡誌」所収)によると高二七〇石余、田畑屋敷合せて四七町三反余、年貢高は米三石八斗余および永六一貫余。永六一貫余の大部分は金納だが、永一一文は漆一六匁、永四三文は荏二斗一升五合で納め、永五貫三七五文は中絹二五疋、永六六〇文は下絹四疋で納めることになっている(ただし中絹・下絹とも売却して金納)


水沼村
みずぬまむら

[現在地名]長南町水沼

岩撫いわなで村の南に位置し、一宮いちのみや川支流の埴生はぶ川が流れる。西の市原郡境に野見金のみがね山があり、南郷なんごう堀之内ほりのうちなどの地名がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四三五石。元禄郷帳では高五七一石余。寛政五年(一七九三)の村明細帳(石橋家文書)では七二町一反余で家数一三二・人数五九七、川堰二・溜井二、筵・茣蓙を作っていた。同帳では下総高岡藩領(旧高旧領取調帳では知行高二四二石余)と旗本田沼(同八六石余)・川口(同二〇五石余)・三枝(同三七石余)三氏の相給となっている。天保二年(一八三一)の酒造仲間議定書(高橋家文書)に酒造株高三〇石の六右衛門がみえる。


水沼村
みずぬまむら

[現在地名]金山町水沼

沼沢ぬまざわ湖の北、只見ただみ川南岸に位置する。四ヵ所の端村を有し、上大牧かみおおまき・下大牧・高倉たかくらは只見川北岸、上田うわだは本村の西一七町余にあって宮崎みやざき村に接する。「会津風土記」には水とあり沼の字を欠くが誤記であろう。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がなく宮崎村に包含されており、中世以来宮崎氏の支配領であった。村高は旧高旧領取調帳で二五四石余。化政期の家数は本村二七・上田八・上大牧七・下大牧一一・高倉一五(新編会津風土記)。天保一三年(一八四二)には家数五八、人数三六三(男一八七・女一七六)、男牛二七(「大石組人別家数増減書上帳」中丸家文書)


水沼村
みずぬまむら

[現在地名]藤崎町水沼

東は小阿弥こあみ堰より分水する深味ふかみ堰を境に矢沢やざわ村、西は五林ごりん村、南は藤越ふじこし村、北は中野目なかのめ村に接する。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「みぞ沼」とあり、当村と思われる。

貞享四年(一六八七)検地帳によれば、田方六三町三反三畝一八歩、畑方七町三反四畝一〇歩、田畑屋敷合せて七〇町六反七畝二八歩、村高六五八・九六三石、漆木一三本とある。


水沼村
みぬまのむら

犬上郡に所在した古代村落。天平勝宝三年(七五一)近江国水沼村墾田地図(東大寺文書)には、近江国司により開発され、奈良東大寺に施入された水沼村の田地が詳細に描かれ、開田の事情と四至が注記されている。「水沼村参拾町」は「東水沼池山、南□□墾田家畠、西百姓口分□□、□□□□山赤坂岡」と注記があり、条里の図が記される。絵図の記載と注記によって、水沼村の故地は現在の多賀町敏満寺びんまんじ一帯に比定され、東の境界をなす水沼池は現在の大門だいもん池にほぼ一致する。水沼村は犬上郡一〇条一里・二里、一一条二里にわたるが、一一条二里は一〇条一里の南隣となり、一一条一里はもう一つ東になるので、一〇条と一一条の里の起点は一里ずれていたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「水沼村」の意味・わかりやすい解説

水沼村 (みぬまむら)

東大寺の近江国犬上郡の荘園。現滋賀県犬上郡多賀町敏満寺・大尼子の南部一帯。正倉院所蔵の東大寺開田図のうち,751年(天平勝宝3)の〈近江国水沼村墾田地図〉が〈近江国覇流(へる)村墾田地図〉とともに麻布に一幀とされて遺存している。その奥書部分に記載の太政官符によると,751年以前,太政官の命を受けて,近江国が正税を用いて,公力により開発した30町の地である。田図は751年にその結果を記載,作成され,太政官に報告提出したもの。藤原仲麻呂の乱後か,その地は覇流村とともに東大寺に田図を添えて勅施入され,以後東大寺の荘園となり,998年(長徳4)には,〈東大寺領諸国荘家田地目録〉,《東大寺要録》別功徳分庄に,〈11月14日千灯会料〉として〈水沼庄田7町8反253歩〉がみえる。
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百科事典マイペディア 「水沼村」の意味・わかりやすい解説

水沼村【みぬまむら】

近江国にあった古代の村,のち奈良東大寺領の荘園となる。現在の滋賀県多賀町敏満寺にあたる。751年の東大寺近江国開田図(正倉院蔵)に〈水沼村〉30町とあり,これ以前に太政官(だいじょうかん)の命により近江国の正税(しょうぜい)を用いて公力によって開発されたもので,東大寺に施入され,同寺領荘園となった。998年には水沼庄田7町8反余が11月14日の千灯会(せんとうえ)料に充てられている。東の境界をなす水沼池は現在の大門池にほぼ一致し,1976年・1977年の発掘調査では11世紀から13世紀の掘立柱建物跡が多数発見されており,開田図の記載が一部ながら確認された。

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