朝日日本歴史人物事典 「曲直瀬玄朔」の解説
曲直瀬玄朔
生年:天文18(1549)
安土桃山時代,江戸前期の医者。幼名は大力之助,名は正紹,号は東井,通称は玄朔のち道三(2代)を襲名,院号は延命院,延寿院。初代道三の妹の子として京都に生まれる。幼くして両親を失い道三に養育され,天正9(1581)年にその孫娘を娶って養嗣子となり道三流医学を皆伝された。法眼から法印に進み,豊臣秀吉の番医制に組み込まれて関白秀次の診療にも当たった。文禄4(1595)年の秀次切腹に連座して常陸国(茨城県)に流され,のち赦免されて帰京し朝廷への再出仕も許された。徳川家康・秀忠に仕え江戸邸と麻生(港区)に薬園地を与えられた。江戸で没し,薬園地に生前建てていた瑞泉山祥雲寺(のち渋谷へ移転)に葬られた。初代道三の選した著作を校訂増補して道三流医学の普及をはかり,野間玄琢,井上玄徹,饗庭東庵らのすぐれた門弟を輩出させて初代道三とともに日本医学中興の祖と称せられる。<著作>『済民記』『延寿撮要』『薬性能毒』<参考文献>宮本義己「豊臣政権の番医」(『国史学』133号)
(宗田一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報