有吉村(読み)ありよしむら

日本歴史地名大系 「有吉村」の解説

有吉村
ありよしむら

[現在地名]緑区有吉町・鎌取町かまとりちよう

駒崎こまざき村の北東に位置し、村の北部を土気とけ往還が通る。天文七年(一五三八)の第一次国府台合戦のあと北条氏康が同綱成に築かせた有吉城は里見氏との攻防地点になったとされるが、未調査。文禄四年(一五九五)九月二〇日の千葉郡有吉村検地帳(藤沢市文書館蔵)が残る。寛永四年(一六二七)生実藩領となり、同五年の小弓領郷帳では田一五六石余・畑四一石余。幕末に至るまで同藩領。貞享三年(一六八六)南生実みなみおゆみ村・北生実村(現中央区)野口のぐち高沢たかざわの村境をめぐり争い、宝永四年(一七〇七)には藩役人の検分を受け、改めて境目を定めている(大塚家文書)


有吉村
ありよしむら

[現在地名]木更津市有吉

井尻いじり村の東に位置する。地内に宿しゆく佃町つくだまちまくうちなどの地名があり、古積こせき中世の城館(有吉城)跡といわれる。年未詳七月一日の里見義頼寄進状(西門院文書)に「有吉之郷」とみえ、郷内の永福寺・竜蔵寺両寺領のうち五貫代と、そのほか年貢五貫代との合せて一〇貫代が神野じんや(現君津市)に寄進されている。寛永三年(一六二六)田畑屋敷高辻帳に村名がみえ、高七一三石余、田三一町八反余・畑屋敷一一町七反余、四〇四石余分が荒れ地。元禄郷帳では高六四一石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数九二、三卿の清水領と旗本興津・中根堀内・佐藤・鈴木の五家領および与力給知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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