若宮八幡神社(読み)わかみやはちまんじんじや

日本歴史地名大系 「若宮八幡神社」の解説

若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじや

[現在地名]日出町日出

南に日出港を望む丘の上に鎮座。祭神は誉田別命(応神天皇)など六柱。旧県社。創祀については三様の伝承がある。一は天徳三年(九五九)津島の八津島つじまのやつしま宮から応神天皇・市杵島姫命を分祀し、翌四年に山城石清水いわしみず八幡宮から仲哀天皇・神功皇后・大山守命・菟道皇子を勧請して六柱としたというもの(「城内歴世記」城内文書)。二は天徳四年に石清水八幡宮から分霊を勧請したが、その船が日出と津島の境の太田たいだ浜に着船した。その後浮津の北うきつのきた山に社殿を建立して日出庄の産土神となった。そのため祭礼の九月一五日(旧暦)の際の御旅所津殿は太田浜に設営されるというもの(「日出庄若宮八幡之由来」社蔵)。三は建久年間(一一九〇―九九)に大友能直が創立した八幡七社の一であるというもの(豊後国志)


若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじや

[現在地名]三次市十日市町 花園

国鉄三次駅の裏山、三次盆地の南縁から北へ張出す丘陵の突端に鎮座する。祭神応神天皇。通称「若宮さん」の名で知られ、境内は桜の名所ともなっている。旧村社。

「芸藩通志」によると、鎌倉時代初め三吉みよし村地頭三吉兼範が山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)はらすくい山に勧請したのが初めで、三吉家一四代隆亮が弘治三年(一五五七)上里あがり寺戸てらどへ移した。上里村の「国郡志下調書出帳」に「奉祈造立八幡宮宝殿壱社 大檀那三吉式部少輔藤原隆亮 大願主三吉安房守藤原致高 社務泉三郎五郎藤原久正 弘治三年菊月三日」の棟札を蔵すとある。


若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじや

[現在地名]中島町元怒和 宮ノ浦

元怒和もとぬわの集落の北方に鎮座。祭神は応神天皇・神功皇后・田心姫命など五神。旧村社。

社伝によれば藤原純友に養育された三吉五郎左衛門藤原喜基が、乱後怒和ぬわ島に逃れて小祠を建てたのに始まるとされ、天暦年間(九四七―九五七)のことと伝える。「忽那嶋開発記」には「藤原親朝 忽那長者、号三郎大輔(中略)大浦八幡奉六嶋」とあり「嘉保之頃」と記され、社殿の建立は一一世紀末と推定される。


若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじや

[現在地名]美並村上田 下田

下田しもだ集落西の山手に鎮座する。社務所の南側に国津くつ井といわれる井戸があるところから美濃国神名帳にみられる国津明神に比定する説がある。ただし現和良わら村の戸隠とがくし神社に比定する説もある。旧郷社。祭神は応神天皇・仁徳天皇・仲哀天皇。泰澄の創建と伝える郡上四九社の一つで、養老六年(七二二)創建とされる。本社に若宮八幡社、右に白山社、左にあがた明神社を祀り、三所明神とよぶ。一の鳥居は村と繁在はんざい村の境、蛭子ひるこ坂にあったという。郡上藩主遠藤氏から神領二石八斗余の寄進をうけ、以後藩主が交替しても神領が認められた。


若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじや

[現在地名]和歌山市有本 栗林

紀ノ川南岸の自然堤防沿いにある。祭神は応神天皇・神功皇后、旧村社。栗林くりばやし八幡ともよばれる。永享の乱によって永享一一年(一四三九)鎌倉鶴岡八幡宮が焼失した時に、別当僧が神体を持って紀州菟道うじ村へ逃れ、社を建てて祀ったことに始まるという。「続風土記」によると、このとき菟道村は菟道・市場いちば四日市よつかいちの小字に分れており、このうち氏神のない菟道に祀られたという。また別当寺も建てられ、鶴岡山大道だいどう寺と号した。その後、天正一三年(一五八五)羽柴秀吉の紀州攻めにより村は焼けたが、社のみ残ったという。同書は寛文記を引いて、寛永一二年(一六三五)徳川頼宣が栗林の地に社殿を造営して神体を移し、和歌山城の艮(北東)の守護神としたと記す。


若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじや

[現在地名]東根市東根

市街地北東の丘陵上にあり、広い社地に老松古杉に囲まれて、すべて樫材の本殿・拝殿などが立並ぶ。祭神は誉田別尊・大鷦鷯尊。旧郷社。若宮八幡縁起(社蔵)によれば、「鶴ケ岡八幡の神人三浦下野守平為澄、その他祠部(中略)等八名と共に乱を避け、神霊を奉じ本邑に遷祀し、為澄之が祭主たり」とあり、乱は宝治合戦と思われる。高さ二九センチの鳳凰を配した高さ八三センチの古様の神輿があり、県指定有形文化財で、当時のものといわれる。


若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじや

[現在地名]秋田市太平中関 八幡野

太平山地南麓に鎮座。祭神は応神天皇・天照大神。旧村社。

太平庄堀内邑若宮八幡宮縁起(南秋田郡史)によれば、応安二年(一三六九)太平庄永井左近太夫大江元正が鎌倉の鶴岡八幡を勧請したのに始まり、以後代々造営が重ねられたとする。太平城主の守護神として崇拝されたのであろう。

文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」に「御当国と成て堂再興あり、十二社の内とす、指紙二十石を賜ふ今四石余開」と記され、また享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には、黒沢くろさわ村支郷台菅野だいかんの村に「当高四斗大平若宮八幡宮油用御寄進之分別当御指紙頂戴」、山谷やまや村支郷屋山ややま村に「当高九斗九升大平若宮八幡神田御寄進」とあり、太平の人々から広く崇敬された。


若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじや

[現在地名]吉備町吉見

吉見よしみの南東、みやたににある。祭神は義有王。「続風土記」は「境内に陵の池といふ方二間許の池あり、土人相伝へて吉見親王の陵なりといふ」と記し、当地は義有王に縁故深い地であり、当社は義有王を祀るとしている。義有王は後村上天皇第六皇子説成親王の子、文安元年(一四四四)南朝方の残党とともに大和・紀伊の各地で転戦、同四年湯浅ゆあさ(現和歌山県湯浅町)で紀州の南朝方とともに抗戦し、畠山持国軍に敗れて吉見まで逃走して自刃したという。


若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじや

[現在地名]東条町黒谷

みやしたにある。祭神は誉田別命・彦狭知命・素盞嗚命・少彦名命など。旧村社。本殿の内陣墨書銘によれば、永禄七年(一五六四)四月、社坊隆慶の時に再建され、奉行衆として吉河谷加賀守・吉野参河守・行嶋近江守・今安河内守・上馬場久衛門尉・大西左京亮・山崎治郎左衛門尉の吉田よしだ本庄内の氏子七人が記されている。ただし社伝によると、天正八年(一五八〇)の三木落城のとき城主別所長治の守護神であった八幡大神の神体を一三人の家臣たちが火中から救出、この地に逃れて祀ったのが始まりという(加東郡誌)


若宮八幡神社
わかみやはちまんじんじや

[現在地名]千代田村下志筑 若宮

恋瀬こいせ川右岸の台地上にある。祭神は誉田別命。旧村社。神社の由緒によれば、源頼義が奥州征討の途次、当地に鎌倉八幡宮を勧請して戦勝祈願をしたのに始まるという。その後村人が社殿を造営したが、天正二年(一五七四)の小田・佐竹両氏の戦で焼失した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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