永福寺(読み)ようふくじ

精選版 日本国語大辞典 「永福寺」の意味・読み・例文・類語

ようふく‐じヤウフク‥【永福寺】

  1. 〘 名詞 〙 神奈川県鎌倉市二階堂にあった寺。建久三年(一一九二)源頼朝が中尊寺の大長寿院(二階大堂)に模して建立。跡地は国史跡に指定。二階堂。えいふくじ。

えいふく‐じ【永福寺】

  1. ようふくじ(永福寺)

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日本歴史地名大系 「永福寺」の解説

永福寺
えいふくじ

[現在地名]別府市鉄輪 風呂本

鉄輪かんなわ温泉の中にあり、県内唯一の時宗寺院。時宗の開祖一遍ゆかりの寺として知られる。温泉山と号し、本尊は阿弥陀如来。江戸時代には松寿しようじゆ庵と称していた。毎年九月には、寺に安置している一遍の木像をむし湯・しぶの湯・ねつの湯の順に担いでまわり湯浴みをさせる鉄輪温泉湯浴み祭が行われている。木像を湯浴みさせた後に入浴すると、一風呂で千風呂入ったと同じ効き目があるといわれている。当寺の始まりについて明治初年に記された温泉山松寿庵由緒書(「明治二十三年社寺復旧願書」県立大分図書館蔵)に次のようにある。豊後国へ来た一遍は、鉄輪の地で一老翁に会いその示唆により湯治場を開いた。これが鉄輪温泉の始まりで、そこに一遍に帰依していた豊後国守護大友頼泰が寺を建て一遍に寺号を請うた。そこで一遍は温泉山の山号と、一遍の幼名松寿丸にちなんで松寿寺としたという。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]富山市梅沢町三丁目

医王山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。城端善徳じようはなぜんとく寺の開基蓮真が加賀砂子坂すなござか(現石川県金沢市)、越中法林寺ほうりんじ(現福光町)などを経て、松寺まつてら(現同上)に住したのに始まり、蓮真は永正八年(一五一一)一〇月二〇日に松寺で没した(「由緒書」寺蔵)。その寺基に野々市照台ののいちしようだい(現石川県野々市町)住の蓮真四男賢誓が父遺書により入ったが、享禄四年(一五三一)に没した。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]盛岡市下米内 寺並

JR山田線の山岸やまぎし駅北東隣に位置する。江戸時代は山岸村と下米内しもよない村の境にあった。宝珠盛岡山と号し、真言宗豊山派。本尊は大聖歓喜天。盛岡五山の筆頭、寺領八〇〇石、盛岡藩領内真言諸刹の冠寺。「盛岡砂子」によれば、往古坂上田村麻呂が東夷攻略の際、祈願所として建立したと伝える。また元和(一六一五―二四)の頃に盛岡藩二代藩主南部利直が現在地に移し、その旧地は沖田面おきたおもて(現青森県三戸郡南部町)嶺松れいしよう(明治二年に廃寺)とされる。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]八街市小谷流

県道千葉―川上かわかみ―八街線沿いにある。法流山と号し、顕本法華宗。本尊釈迦如来。貞和三年(一三四七)に豪族山本常源・義俊兄弟によって創建され、もとは真言宗で住蒼山長寿ちようじゆ寺と称していたという。長享二年(一四八八)土気とけ(現千葉市緑区)城主酒井定隆が行った七里法華の改宗令により、真言宗から法華宗に改宗し、寺名も改めた。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]本郷町船木 亀津原

沼田ぬた川左岸にあり、臨済宗妙心寺派。蓮華山と号し、本尊無量寿如来。小早川茂平の菩提寺で、境内西方に茂平の墓がある。建長―康元(一二四九―五七)の頃威徳が茂平と協力して建立し、京都東福寺住持四世の白雲慧暁(仏照)を招き開山としたと伝える。もと天台宗で、慧暁が没した永仁五年(一二九七)以前に臨済宗に改宗したと考えられる。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]美野里町竹原中郷 関町

園部そのべ川の左岸に位置し、竹原たけはら城跡の東にある。天台宗で、蓬来山薬師院と号する。本尊は阿弥陀如来。天喜元年(一〇五三)府中大掾清幹(平清幹)の弟心海の開基という。初め現石岡市東大橋ひがしおおはしの地に建立され、のち現在地に移ったとも伝える。明治一八年(一八八五)の寺院明細書(茅場家文書)に「安永九年五月罹災 今ノ堂宇、天明元年営建スル所ナリ、一、本堂 間口八間半、奥行十二間」とある。

慶安元年(一六四八)の徳川家光朱印状(永福寺文書)によると、朱印地五石を新治にいはり田木谷たぎや(現玉里村)に与えられ、将軍交替ごとに再交付されて、現在も九通が所蔵される。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]宇佐市北宇佐

北宇佐の字しとみにあり、界城山と号し、臨済宗大徳寺派。本尊は地蔵菩薩。宇佐宮政所惣検校職を世襲した益永家の菩提寺で、寺の北部台地に同家墓地がある。年月日未詳の益永氏過去帳写(益永文書)などによると、開基は文明七年(一四七五)に没した益永政輔で、開山は円通えんつう寺無塵。同年二月二五日政輔の孫通輔と甥直輔が二親の追善料として「永福庵」に寺領を寄進している(「益永通輔・同直輔寄進状写」同文書)。なおのちに当寺下寺となった戒光かいこう院はすでに正平一九年(一三六四)七月日の小山田社免田坪付并名主交名注進状(小山田文書)にみえる。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]成田市飯岡

飯岡山と号し、真言宗智山派。本尊は薬師如来。天平宝字七年(七六三)鑑真によって創建されたと伝える。近くに鑑真が居住した跡といわれる唐鑑房や鑑真が持参した唐の竹を植えたと伝える唐竹谷からだけさくといった場所があり、鑑真はともかく唐の僧侶が創建にかかわったとも推測される。寺宝に荒海あらみ城主荒見胤村が寄進したとされる兆殿司画の十六羅漢図の掛軸があったというが(印旛郡誌)、現存しない。「佐倉風土記」には「鐘あり、元徳元年の字を刻む。彫鋳画仏像甚だ多し。また大廻向経・大般若経・仏名経等あり。俗に伝ふ、貞和中、上総国高階氏女、夢に感ずる所にし、三国伝記に謂ふところの飯岡律僧寺は是なり」とあり、元徳元年(一三二九)の梵鐘があるとしているが、これも伝来しない。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]氷見市久目

上庄かみしよう川の西岸、久目くめの中央よりやや西寄りに位置する。納谷山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。氷見郡寺院明細帳(県立図書館蔵)によれば、開基は真言宗の徒で池田いけだ村に住む子浦占部守大伴源藤治貞彦で、本願寺五世綽如に帰依して改宗し、僧名を正見と賜り、応安三年(一三七〇)当寺を創立している。「三州地理志稿」によれば明応二年(一四九三)僧性音が再建したとある。開基仏と思われる阿弥陀如来絵像は裏書はないが、九代実如下付のものと思われる。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]留萌市旭町

あさひ町三丁目にある。浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。真宗大谷派の宗徒であった藤慈円が本願寺派に転じ、北海道布教の志を立て、明治一九年(一八八六)留萌に小樽別院出張説教所を開設。同二二年旧留萌場所請負人栖原角兵衛からおお町三丁目の四五〇坪の境内地の寄進を受け、八島与惣兵衛が中心となって間口七間・奥行五間半の本堂兼庫裏が建てられ、本堂増築・庫裏の新築が行われた。同二六年永福寺の寺号公称が許された。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]杉戸町下高野

大落古利根おおおとしふるとね川左岸、自然堤防上に立地する。当初は長福寺と号していた可能性がある。竜灯山と号し、真言宗豊山派。本尊は行基作と伝える阿弥陀如来坐像。宝暦九年(一七五九)弁隆が当寺の住職になる以前は長福ちようふく寺と称していたというが(文久二年「永福寺伝灯記」当寺蔵)、寺の由緒はあまり明らかでなく寺伝によると、円融天皇の時代に覚宥によって中興されたと伝える。明徳三年(一三九二)七月二三日に三世日尊が父因幡の罪業消滅のため施餓鬼供養を修したという。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]下関市観音崎町

しろ山の南西にある。臨済宗南禅寺派で重関山と号し、本尊は千手観音

寺伝によれば、推古天皇の一九年百済の琳聖太子が入朝の際ここに一宇を建立し、念持仏観音像を安置したのに始まり、大同元年(八〇六)藤原良継の命を受けて飛騨国の工匠竹田希統が改築、堂宇が完成したという。

初め天台宗であったが嘉暦二年(一三二七)南禅なんぜん(現京都市左京区)平田慈均が開山となり臨済宗の道場に改め、それ以後九州あるいは中国大陸への中継地として雲水の修行道場となり、また学僧のとどまるところとなった。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]久御山町市田

市田いちだのほぼ中央に位置し、珠城たまき神社の南西にあたる。日輝山微妙院と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、延暦一八年(七九九)教観により近江比叡山東塔北谷から移された寺で、南北一五〇間、東西二〇〇有余間の寺域を有し四方は堀に囲まれていたといい、弘仁二年(八一一)嵯峨天皇の勅願所となり、御所の南西(裏鬼門)を守護する寺院であったという。天永年中(一一一〇―一三)奈良興福寺の僧兵により焼亡。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]高知市井口町

井口いぐち町の西部、永福寺山麓にある。真宗大谷派。潜竜山と号し、本尊は阿弥陀如来。「皆山集」によると、開基年次は不詳だが、亀岡民部という者が京都本願寺で得度、法名を教乗と名乗り、土佐郡福井ふくい村に一寺を建立したのに始まるという。慶長六年(一六〇一)井口村中之城なかのしろの地に移ったが、当時は道場で、同一二年、四世勝慶のとき西本願寺より永福寺の寺号を免許された。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]王寺町畠田七丁目

畠田はたけだ集落の西部に所在。来迎山と号し、浄土宗。本尊釈迦如来坐像は平安後期の作。創建は行基と伝えるが不詳。慶安年中(一六四八―五二)に丹羽実春の父母、浄清・妙春が復興して釈迦像を安置し、中興は寛文一〇年(一六七〇)に没した峰心とされる。宝永三年(一七〇六)に修復された本堂には本尊をはじめ、阿弥陀如来像・善導像・法然像を安置。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]東松山市市ノ川

松山台地の北縁崖下に位置する。万松山と号し、曹洞宗。本尊は延命地蔵。寺伝によると永正五年(一五〇八)の開創で、開基は北条氏直、開山は本寺である伊豆最勝さいしよう(現静岡県中伊豆町)四世大洞存(永正一六年没)。しかし、氏直の生年は永禄五年(一五六二)で年代が一致せず、氏直は中興開基と思われる。


永福寺
えいふくじ

[現在地名]塩尻市大字塩尻町

塩尻町村東端の中山道に南面する。真言宗、本尊大日如来。

信府統記」等によれば、永福寺は初め東山方面にあったが、永正年間(一五〇四―二一)に木曾義方が長畝ながうねの地に臨済宗長福寺として再興して以来、長畝から中世の塩尻宿、江戸期の塩尻宿と位置を変えた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「永福寺」の意味・わかりやすい解説

永福寺 (えいふくじ)

富山市にある真宗大谷派の寺。山号は医王山。通称は松寺。寺伝によれば,783年(延暦2)僧浄定がその師泰澄の遺志をついで礪(砺)波郡の医王山中に創建,聖護寺と称し,真言宗に属していた。1471年(文明3)当寺の住持寂浄は蓮如に帰依し,法名を道海と改め,76年蓮如は当寺を礪波郡の才川七村へ移し,松寺と改めて甥の蓮真を住持にすえた。これが当寺の中興である。1596年(慶長1)前田利長は当寺を越中東方300余寺の総録所触頭(ふれがしら)と定め,99年本願寺の教如は石山合戦ならびに東西分派の功績をもって永福寺の寺号を与え,永世院家地(えいせいいんげじ)の寺格に列した。1609年当寺は高岡に移り,38年(寛永15)さらに富山に転じ,翌年前田利次より富山藩総録所触頭に任ぜられ,寺法・国法の役寺として重きをなした。しかし1861年(文久1)大火に焼失し,70年(明治3)には廃仏毀釈の災厄にあい,寺勢は衰えた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「永福寺」の意味・わかりやすい解説

永福寺
えいふくじ

「ようふくじ」ともいう。源頼朝が奥州平定で死去した弟義経や藤原泰衡(やすひら)はじめ数万の怨霊(おんりょう)を弔うため、1192年(建久3)に鎌倉市内の現在の二階堂(にかいどう)に平泉中尊寺の大長寿院(だいちょうじゅいん)の伽藍形式を模して建てた天台密教系の寺院。山号は三堂山(さんどうさん)。廃寺。二階堂(本堂)・阿弥陀堂・薬師堂の主要な建物が回廊で結ばれていた景観は、極楽浄土を連想させるほどに荘厳華麗であったらしい。だが1333年(元弘3・正慶2)に鎌倉幕府が滅亡するや徐々に衰え、さらに1405年(応永12)に火災にみまわれ、以後廃絶した。近年の発掘調査により、3堂の配置状況や中島を築いた庭園の遺構、苑池の汀石(みぎわいし)(池に配置された景石)の状況なども明らかになった。1966年(昭和41)、国指定の史跡となる。

[高橋秀栄]

『『鎌倉市史 社寺編』(1959・吉川弘文館)』『貫達人・川副武胤著『鎌倉廃寺事典』(1980・有隣堂)』『『国指定史跡永福寺跡 遺構編』(2001・鎌倉市教育委員会)』

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世界大百科事典(旧版)内の永福寺の言及

【杉戸[町]】より

…西部を走る国道4号線沿線には食品や機械・金属関係の工場が進出している。永福寺の〈どじょうせがき〉は関東三大施餓鬼の一つに数えられている。【千葉 立也】
[杉戸宿]
 日光道中第5次の宿場。…

※「永福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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