朝日日本歴史人物事典 「服部栗斎」の解説
服部栗斎
生年:元文1.4.27(1736.6.6)
江戸中期の儒学者。名は保命,字佑甫(右父),通称善蔵,号栗斎,別号旗峯,静春など。上総(千葉県)飯野藩の飛地摂津浜村(大阪府豊中市)で藩士服部梅圃の4男として生まれる。若くして大坂の五井蘭洲に師事。中小姓として勤仕してからは主に久米訂斎,石王黄裳,稲葉迂斎ら崎門派の儒者に教えを受け,江戸では迂斎の弟子村士玉水に兄事。主君保科正富とその子正率に書を講じたが正率に疎まれて致仕(38歳)。浪人中は築地の家塾信古堂に教えた。寛政3(1791)年,幕府は学問所の直轄教授所を深川,麻布,麹町に設置,才を認められ麹町教授所の長となった。崎門派の朱子学者だが,字義文義を抜きに理を説きがちな崎門末流には批判的で,詩文に遊ぶ雅人でもあった。<著作>『隠居放言』<参考文献>市川任三「麹渓書院考」(『立正大学教養部紀要』13号)
(宮崎修多)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報