インド哲学(読み)いんどてつがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インド哲学」の意味・わかりやすい解説

インド哲学
いんどてつがく

インドで(成立)、発展した哲学・宗教思想の総称、ならびにそれを研究対象とする学問。従来は主として、インドでおよそ16世紀以前に成立、発達した哲学・宗教思想を意味するのが通例であった。日本で「印度(インド)哲学」はときとして「仏教」の同義語として用いられた。「インド」という語は今日のインド共和国のみならず、その近隣諸国をも含むインド亜大陸といわれる地域をさす。「哲学」はサンスクリット語の「ダルシャナdarśana(見、観)の訳語として用いられる。ダルシャナは人間存在、またはそのよりどころとしての世界に関する洞察を意味し、ヒンドゥー教の諸学派やジャイナ教や仏教に適用される。インドでは哲学と宗教とは不可分離の関係にあり、哲学はいわば宗教的目標の実現のための不可欠の手段である。このためにインドの諸宗教は哲学によって理論的に基礎づけられ、主知主義的傾向を示す。インドでは、特殊性よりも普遍性を、個物よりも全体を重んじ、各思想家の独創性よりも伝統に対する忠実さを強調するために、個々の哲学者独自の哲学よりも、むしろ長い間にわたって多数の哲学者たちの貢献によって成立した哲学体系ないし学派が存続し発展する。内面的、反省的傾向が強く、自然科学との結び付きが比較的弱い。現実世界を苦と観じ、一見厭世(えんせい)的であるが、その自覚を出発点として、哲学的思索と宗教的実践によって苦の輪廻(りんね)の世界を脱して、解脱(げだつ)の境地を実現しようとする。

[前田専學]

歴史的展開

3000年余にわたるインド哲学の歴史的展開は複雑であり、かつ正確な年代が得がたいために、時代区分もきわめて困難であるが、古代(前1200~後600)、中世(600~1800)、近現代(1800~)として概説する。

[前田専學]

古代

〔1〕第1期・哲学的思惟(しい)の形成(前1200~後120) 紀元前2300~前1800年を中心に、現在のパキスタンの領内にあるモヘンジョ・ダーロとハラッパーを二大中心地としてインダス文明が栄えていた。その出土品のなかには当時の宗教や慣習などを暗示するものがあるが、当時の思想を知ることは現段階では不可能である。この文明の終末とほぼ同じころ、アーリア人が西北インドに進入し、この文明の遺跡の近く、パンジャーブ(五河)地方に定着して、前1200年を中心に聖典『リグ・ベーダ』を編纂(へんさん)した。その後、前500年ころまでに主要なベーダ聖典が編纂され、いわゆるバラモン教の根本聖典が整備された。『リグ・ベーダ』の宗教は多神教であり、主として太陽神スーリヤ、火神アグニなどの自然神や、武勇神インドラ(帝釈天(たいしゃくてん))、司法神バルナ(水天)のような擬人化された神などが崇拝されている。しかし多神教の世界に満足しえなくなった人々は、やがて、多数の神々は唯一の神がさまざまな形をとって現れたものであり、その唯一の神の異なった名称にすぎないという思想が生まれ、さらに神々をも超越した唯一の最高神あるいは根本原理の追究に向かい、後世インド思想の主流をなす一神教的あるいは一元論的思想の萌芽(ほうが)が生じる。有も無も超越した中性的原理「かの唯一物」タッド・エーカムtad ekamからの宇宙創造を説く賛歌は、一元論思想の最初の明白な表現であり、ここにおいて『リグ・ベーダ』の哲学的思索は絶頂に達した。人間の身体は死とともに滅びるが霊魂は不滅であると信じられ、死後、最高天にある理想境ヤマ(閻魔(えんま))の王国に行って福楽を受けると考えられ、地獄の観念はいまだなく、楽天的な人生観、世界観を抱いていたらしい。バラモン中心の社会秩序が確立し、複雑な祭祀(さいし)の体系がつくりあげられた前800年を中心とする数百年間に成立したブラーフマナ文献(ベーダ聖典を構成する一文献)においては、祭式万能主義の風潮がみられ、造物主プラジャーパティPrajāpatiが最高神として登場し、祭式そのものとみなされている。この時代には地獄の観念がやや明確化し、人々は天界でふたたび死ぬことを恐れた。ウパニシャッドの時代になると、祭式や最高神への関心は薄れ、知識が重視され、宇宙の根本原因として非人格的な一元的原理を追求するに至り、その結果到達された諸原理のなかでもっとも重要なものはブラフマン(梵(ぼん))とアートマン(我(が))とである。ブラフマンはすでにブラーフマナの時代において宇宙の非人格的最高原理の地位に高められ、またアートマンは個人の本体、自我を表す術語として、ウパニシャッドにおいてもそれ以後においても重要な地位を保つ。ウパニシャッドの哲人はさらに進んで、アートマンとブラフマンは同一である(梵我一如(ぼんがいちにょ))と説くに至った。後代のインド哲学の主要な性格を決定する業(ごう)と輪廻(りんね)の思想もウパニシャッドにおいて明確化した。

 前500年ころになると、社会的大変動を背景に、反バラモン教的な自由思想家(沙門(しゃもん))が輩出したが、なかでもマハービーラはジャイナ教を、ゴータマ・ブッダ(仏陀)は仏教を創始した。ジャイナ教は相対的観察法ナヤnayaに立脚して五実在体説という無神論的多元論を唱え、四姓制度を認めず、不殺生(ふせっしょう)を極端に強調し、苦行主義をとり、業を滅して解脱を求めるべきことを主張した。仏教は形而上(けいじじょう)学的諸問題に関しては益なきこととして判断を中止し、形而上学的実体であるアートマンを想定せず、無(非)我説の立場にたち、いっさいは苦であると認識して、その原因を妄執(もうしゅう)(渇愛)あるいは無明(むみょう)にみいだし、それを断じて涅槃(ねはん)を実現すべきであるとして、四諦(したい)・縁起(えんぎ)説などの教えを説き、四姓平等を唱え、苦行主義を捨てて、八正道(はっしょうどう)すなわち中道の実践を勧めた。前4世紀マウリヤ王朝が全インドを統一、その宰相カウティリヤは「君主は国家である」と主張したが、アショカ王は武力による征服を放棄し、法(ダルマ)による征服を政治理想とした。彼の支持のもとに仏教はインド全域に広がり、さらに南方アジア諸国に伝播(でんぱ)したが、おそらく彼の時代に2派に分かれ、その後さらに分裂を重ねた。他方バラモン教ではベーダの補助学が整備され、ウパニシャッドも若干作成されたが、一般民衆の間では徐々にヒンドゥー教が形成されて、その重要な文献である『マハーバーラタ』やその一部をなす『バガバッド・ギーター』、東南アジア一帯にも大きな影響を与えた『ラーマーヤナ』の主要部分が成立、またプラーナ文献の一部や『マヌ法典』も成立の過程にあった。ヒンドゥー教の形成と呼応するかのように、仏教でも前1世紀ころから、仏陀を信仰の中心に置き、仏徳をたたえ、菩薩行(ぼさつぎょう)を説く新しい運動が、仏塔を中心に集まった説教者を指導者とする在家信者の集団のなかから起こったといわれる。自ら大乗と称し、旧来の仏教を小乗と貶称(へんしょう)し、般若経(はんにゃきょう)類、華厳経(けごんきょう)類、『法華経(ほけきょう)』、浄土教(じょうどきょう)経典類など、膨大な大乗経典を編纂した。

〔2〕第2期・哲学体系の確立と展開(120~600) 第1期においては哲学的思惟は活発であったが、まだ体系を構成するに至らなかった。第2期のクシャーナ(クシャン)王朝からグプタ王朝にかけて、とくにグプタ王朝の時代に主要な哲学体系の確立と展開がみられる。これらの諸体系のうち、唯物論、仏教、ジャイナ教のようにベーダ聖典の権威を認めないものは正統バラモンたちによって非正統派、それに対してなんらかの意味でその権威を認めるサーンキヤ学派などの六派哲学や文法学派などは正統派とみなされている。

(1)仏教の諸体系
(a)部派仏教 とくに、ガンダーラカシミールを根拠地とする説一切有部(せついっさいうぶ)が有力であり、2世紀以降北インド一帯に広まった。法(ダルマ)は過去、現在、未来の三世にわたって実有であるとして、75の法の体系を確立し、また物質は不可分割の原子(極微(ごくみ))の集合であるとして原子論を唱えた。説一切有部から独立した経量部(きょうりょうぶ)は、現在の法のみが実有であり、過去、未来の法は非有であると主張した。

(b)中観(ちゅうがん)派 大乗経典中『般若経』は空(くう)を強調するが、龍樹(りゅうじゅ)(ナーガールジュナ)は空に大乗仏教の本質をみいだし、説一切有部の法実有論を徹底的に攻撃し、空こそ仏陀の教える縁起であり、中道であると主張した。

(c)瑜伽行(ゆがぎょう)派 いっさいの存在を認識の主体と客体とに分け、客体のよりどころとして認識主体阿頼耶識(あらやしき)という精神原理を想定し、三性説によって存在の真相を明らかにしようとした。開祖については異論があるが、無著(むじゃく)(アサンガ)、世親(せしん)(バスバンドゥ)らによって確立された。

(d)如来蔵(にょらいぞう)思想 すべての衆生(しゅじょう)に如来となる可能性があるとする『宝性論(ほうしょうろん)』によって体系化された主張で、瑜伽行派の人々によって受け継がれたが、ついに独自の学派を形成することはなかった。

(2)正統バラモン系統の諸体系
(a)サーンキヤ学派 宇宙の根本原理として精神的原理プルシャPuruaと物質的原理プラクリティPraktiとを想定する二元論で、これによっていっさいの現象を説明しようとした。しかし14世紀以降有神論的一元論へと傾斜していく。

(b)ヨーガ学派 サーンキヤ学派と密接な関係にあり、その形而上学説はほぼ共通であるが、ヨーガを研究、実修する点に本領があった。

(c)ニヤーヤ学派 この学派の主要な関心は論理学にあり、その形而上学に関する部分はバイシェーシカ学派とほぼ同じで、14世紀ころ両学派は融合する。

(d)イシェーシカ学派 実体、属性など六つの範疇(はんちゅう)(句義(くぎ))をたてて現象界の構成を明らかにしようとし、原子論を説き、インドの自然哲学を代表する。

(e)ミーマーンサー学派 ベーダのなかに規定されている祭祀(さいし)、儀礼の意義を哲学的に研究する学派で、本来ベーダーンタ学派と相補関係にある。

(f)ベーダーンタ学派 ウパニシャッドの主題ブラフマンの研究を目ざし、宇宙の根本原因としてブラフマンのみを想定する。後代、多くの学派に分かれるが、インド思想界の主流を形成して今日に至っている。

(g)文法学派 長いこの派の伝統を踏まえて、5世紀後半バルトリハリが、現象世界の差別相の基底としてのブラフマンは語を本性としており、語は万有の本質を形成しているとして、言語哲学に新生面を開いた。

(3)ジャイナ教 ジャイナ教においても体系化が進み、霊魂などの七原理の説や七句表示法が確立した。

[前田専學]

中世

〔1〕第1期・中世的宗教思想の発達(600~1200) 古代の諸体系は無神論的であるのに対して、中世のそれはバクティ(信愛)を強調し有神論的である点に特色がある。この時代には、仏教とジャイナ教はその基盤となっていた商業資本の没落とともに衰退し、農村に基盤を置くヒンドゥー教が著しく伸長した。古代に確立した諸体系には大きな飛躍はない。注目すべきは、諸学派、とくにニヤーヤ学派と仏教との間に論理学をめぐって論争が繰り広げられ、相互の主張と反駁(はんばく)を通じていよいよ体系が精密化されたことと、ベーダーンタ学派においてシャンカラが活躍して、不二一元論(ふにいちげんろん)を唱導して将来インド思想界の主流となっていく基礎を固めたことである。この時代を特徴づけているのは、ヒンドゥー教の諸宗派と密着した哲学学派ないし宗派の勃興(ぼっこう)と隆盛である。すなわち、7世紀ころから南インドにシバ聖典派、9世紀にはカシミールにカシミール・シバ派(再認識派)、12世紀には革新的なビーラ・シバ派などのシバ教系統の諸派、またかなり古くからバーガバタ派、パンチャラートラ派などのビシュヌ教系統の諸派も活躍する。さらに現世を肯定し、大宇宙と小宇宙との同一視、女性原理シャクティ崇拝などを特徴とするタントリズムの成立もこの時代である。仏教も8世紀以降密教化の傾向を強め、ついに1203年イスラムの勢力によって消滅する。

〔2〕第2期・イスラム教の浸透と思想の変容(1200~1800) 1206年に最初のイスラム王朝がデリーに成立して以後、ムガル王朝の初期に至る三百数十年の間に、イスラムの勢力がパンジャーブからベンガルに及ぶ北インド一帯のみならず、南インドの一部にも達し、一般民衆の間にまで浸透していった。一般民衆の間に大きな影響力をもったのは、バクティ運動とも種々の点で類似性をもつスーフィー(神秘家)たちのイスラム神秘主義(スーフィズム)であった。このような宗教的、社会的状況のなかでみられる伝統的諸学派における注目すべき傾向としては、諸哲学体系の通観的研究の盛行、諸哲学の折衷と融合、諸体系の簡潔な入門書の作成をあげることができる。また12世紀にはラーマーヌジャ、13世紀にはマドバ、14世紀にはニンバールカが、ビシュヌ教をベーダーンタ哲学によって基礎づけ、ヒンドゥー教を哲学的に武装した。14世紀にはまたガンゲーシャによってナビヤ・ニヤーヤ(新ニヤーヤ学派)が創始され、論理学の領域で新生面が開かれた。これらはおそらく、多数のイスラム教への改宗者を出しつつあったヒンドゥー側の、イスラム教に対する対抗ないし危機意識に根ざし、自己の伝統の再確認と強化を目ざしたものであろう。15、16世紀になると、ヒンドゥー教徒の間に、時流に即した新しい宗教思想運動が起こり、なかには近代的思惟の萌芽を示しているものもある。バッラバは、ベーダーンタを純粋不二一元論の立場から解釈し、現象世界もブラフマンと同じく実在するとして現実世界を肯定し、ヒンドゥー教を世俗化した。ラーマーナンダは、男も女も神の前では平等であり、最高神に対してバクティをもつならば、その人のカーストや社会的地位はまったく問題にならないと主張し、ヒンディー語を文章語とする先駆となり、堕落した傾向にあったヒンドゥー教に清純で貞節なラーマとシーターの崇拝を広めて、ヒンドゥー教に倫理性を回復した。彼の弟子カビールは、イスラム教の影響を受け、カースト制度の打破を叫び、ヒンドゥー教徒の偶像崇拝を激しく攻撃し、他方イスラム教徒の排他性や聖者崇拝などの儀礼を捨てるように勧め、ラーマもラヒームも唯一絶対の神の異なった名称にすぎないと主張した。彼の影響下でナーナクは、ヒンドゥーでもムスリムでもない立場にたってシク教を創始し、最高の真理である神への崇拝を強調し、激しく偶像崇拝を攻撃し、形式的儀礼や苦行などの価値を否認し、カーストは不適切であると説いた。イスラム教とヒンドゥー教との融合の動きは、シャー・ジャハーンの長子ダーラー・シコーにおいて頂点に達した。彼はイスラム神秘主義について論文を著し、ヒンドゥー神秘主義とイスラム神秘主義との同一性を強調し、『ウパニシャッド』52点をペルシア語に翻訳させるなどしたが、彼の非業(ひごう)の最期とともに、アクバル以来のムガル王室内の折衷・融合主義的傾向は急速に衰退した。

[前田専學]

近現代

1858年インドはイギリスの直轄植民地となり、キリスト教の伝播や英語教育の普及、西洋文明との直接の接触などによって、インドの宗教、思想は大きな影響を受けた。まず、ヒンドゥー教内部に宗教改革運動が起こった。ラーム・モーハン・ローイのブラフマ協会、ダヤーナンダ・サラスバティーのアーリヤ協会などがある。不可触民からの宗教・社会改革運動としては、シュリー・ナーラーヤナ・グルのシュリー・ナーラーヤナ法普及協会の動きがある。また外来の神智(しんち)協会の活躍も看過しえない。他方、ラーマクリシュナとラマナ・マハルシは、近代化、西洋化の風潮のなかにありながら、ひたすらヒンドゥー教の伝統を自ら体現し、偉大な聖者として人々に大きな影響を与えた。1870年代ころから、ナショナリズムの高まりを背景に、知的形成は主として西洋的でありながら、西洋の宗教、倫理、社会、政治的価値をヒンドゥー教に同化させたネオ・ヒンドゥーともよぶべき人々が活躍する。ラーマクリシュナの弟子ビベーカーナンダは、シャンカラの思想を受けて、人間への奉仕が本質的には神ブラフマンに対する奉仕と同一であると説き、ラーマクリシュナ・ミッションを設立、現在もこのラーマクリシュナ・ミッションは国際的規模で活躍している。近代インド最大の哲学者といわれるオーロビンド・ゴーシュ、アヒンサー(非暴力)とサティヤーグラハ(真理の把持)運動で知られるインド独立の父ガンディー、思想家としてよりもむしろ詩人として高名なR・タゴール、不二一元論の立場をとりつつ東西の比較哲学への機運を促したラーダークリシュナンなどが大きな影響を与えた。イスラム教ではイクバールが、19世紀末から20世紀前半にかけて進むべき道を失っていたムスリム知識階級に、行動主義を説き、自我の開発と強化を力説して、彼らにやがてパキスタン建国の運動を起こさせる道を開いた。

[前田専學]

研究史

インド哲学の研究は従来インド学Indologyの一領域として発展してきた。1783年イギリスのジョーンズW. Jones(1746―94)がカルカッタ(現コルカタ)の高等法院判事として赴任し、翌84年にはベンガルアジア協会を創設、この協会の雑誌『アジア研究』によってインド学の第一歩が踏み出された。1784年には東インド会社の書記ウィルキンズC. Wilkins(1749―1836)が『バガバッド・ギーター』の英訳を発表。これはサンスクリット原典が直接西洋近代語に訳された最初のものである。その後多数の優れた学者が輩出して急速に進展した。日本においては、1901年(明治34)東京帝国大学に梵語(ぼんご)学講座が創設され、初代教授に、イギリスの著名な東洋学者ミュラーF. M. Müller(1823―1900)や当時インド哲学史の世界的権威であったドイツのドイッセンP. Deussen(1845―1919)に師事して帰国した高楠順次郎(たかくすじゅんじろう)が就任。彼がインド哲学研究の嚆矢(こうし)となった「印度哲学宗教史」を開講したのは1906年のことであった。以来、インド哲学は仏教学ならびに梵文学と相まって、わが国におけるインド学あるいは東洋学の一部をなしている。

[前田専學]

『宇井伯寿著『印度哲学史』(初版・1932/復刊・1965・岩波書店)』『金倉圓照著『インド哲学史』(1962・平楽寺書店)』『中村元著『インド思想史』(1968・岩波書店)』『早島鏡正・高崎直道・原実・前田専學著『インド思想史』(1982・東京大学出版会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インド哲学」の意味・わかりやすい解説

インド哲学
インドてつがく
Indian philosophy

インドにおいて発達した世界および人生に関する問題をなんらかの原理によって統一的に解釈しようとする思弁的体系の総称。広義には,インド本土外へ伝播した思想体系 (たとえば仏教など) の歴史的展開をも含めていう。自然学 (→自然哲学 ) を顧慮せず端的に万有の普遍的真理を追究するため,宗教との関係が密接であること,一思想が出現すると連綿と持続すること,宇宙観を基本として展開をとげたことなどが,西洋哲学との対比において特徴づけられる。
インド哲学の基礎となる3つの基本概念は,万物に内在する霊妙な力であるアートマン,人間の行動の道徳的効果,すなわち (カルマ) ,そして究極の目標たる解脱 (モクシャ) である。インドでは,哲学を darśana (見解) と呼び,唯物論以外は,程度の差はあるとはいえ,すべて人生の苦から脱して,永遠不死の境地 (解脱) に入る宗教的実践を説く。インド哲学は正統派と非正統派から成る。正統派にはミーマーンサー,ベーダーンタ,ニヤーヤ,バイシェーシカ,サーンキヤ,ヨーガの6学派が属し,日本では六派哲学と呼ばれる。この6学派が確立されたのちも,ベーダ聖典や『ウパニシャッド』『マハーバーラタ』はインド哲学に影響を与え続けてきた。これらの学派はそれぞれ一連の戒律によって体系化されている。戒律とは特定の教義を短く覚えやすい警句や定式や規則にまとめたものである。後世のヒンドゥー教の諸派の思想家たちは,六派哲学を学び,そのいずれかの学派に属し,あるいはその影響のもとに自己の体系を確立した。これに対し,ベーダ聖典やヒンドゥー教の聖典の権威を認めない仏教,ジャイナ教などの非正統派もそれぞれの哲学説をもち,多くの思想家を輩出した。
六派哲学のうち,ミーマーンサー学派あるいはプールバ・ミーマーンサー学派は,べーダの解釈に規則性を与え,べーダの祭事の意義を哲学的に考察する。べーダーンタ学派は現在のヒンドゥー教のほとんどの学派の基礎となっており,ミーマーンサー学派のようにべーダの祭事的な側面を重視する代りに,その哲学的解釈を主眼とし,ブラフマン,すなわち究極の存在と,有限な個人との関係に重点をおき,『ウパニシャッド』と『バガバッド・ギーター』を主要な聖典とする。ニヤーヤ学派は,認識方法と論証方法を非常に詳しく研究した。バイシェーシカ学派は人間の感覚に現れる実体の本質を明らかにし,まとめて分類したことで知られる。サーンキヤ学派は物質と自我 (精神) という2つの原理を想定した二元論をとり,正しい知識は物質と自我を識別する能力からもたらされると考える。ヨーガ学派は,サーンキヤ学派から生れた形而上説を直感的に理解するためのヨーガと呼ばれる修業法を実践することによって,他の学派に大きな影響を与えた。

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