朝日日本歴史人物事典 「朝日丹波」の解説
朝日丹波
生年:宝永2.2.17(1705.3.12)
江戸中期の出雲国(島根県)松江藩家老。名は茂保,のち郷保。朝日但馬の子。代々家老の家柄であり家禄は7000石。7歳で家督を継ぎ,享保20(1735)年に中老,元文4(1739)年に仕置役となる。同藩は宝暦9(1759)年に比叡山延暦寺の修築を幕府から御手伝普請として賦課されるなどして深刻な財政難におちいっており,これを打開すべく6代藩主松平宗衍のもとで藩政改革が行われた。このとき改革を担当したのは中老の小田切備中であり,彼は富商・地主の富力を活用し,また「義田方趣向」と称する田地の切り売りによって資金を調達した。そして藩営の商工業をおこすなど積極的な財政運営をとるが,資金繰りの行き詰まりからその施策は破綻した。明和4(1767)年に藩主宗衍が隠退して17歳の若い治郷(不昧)が7代藩主につくや,朝日丹波は「御立派」と呼ばれる新たな改革路線を打ち出して,小田切の富商・郷農との提携策を否定し,勧農抑商主義のうえに立って藩の権威を確立しようとした。それはたぶんに強権的な政治であったが藩財政は再建され,茶人不昧が天下の名器を収集しえたのも,そのたまものであった。丹波は晩年に『治国譜』を著し,自らの政策の展開を自信を持って跡づけている。<参考文献>『島根県史』
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報