日本大百科全書(ニッポニカ)「延暦寺」の解説
延暦寺
えんりゃくじ
大津市坂本本町にある天台宗の総本山。山号は比叡山(ひえいざん)。滋賀県から京都府にまたがる、大比叡(だいひえい)、四明(しめい)ヶ岳、釈迦(しゃか)岳などを含む山並みを比叡山(日枝(ひえ)山)と称し、そのなかの三塔一六谷に点在する堂塔を総称して延暦寺という。三塔とは、最澄(さいちょう)が護国を祈るため日本中の6か所に宝塔を建て『法華経(ほけきょう)』を安置しようと発願した六所宝塔院(ろくしょほうとういん)に由来する。そのなかの東塔(とうとう)(近江(おうみ)宝塔院)が比叡山の滋賀県側に、西塔(さいとう)(山城(やましろ)宝塔院)が京都側につくられ、のち円仁(えんにん)により横川(よかわ)(北塔、根本如法(こんぽんにょほう)塔)が開かれ、その3区分を総称して三塔という。
[田村晃祐]
歴史
比叡山は『古事記』によると古くから大山咋神(おおやまぐいのかみ)が鎮座する所とされ、修験(しゅげん)行者が入っていたと考えられる。奈良時代には山林修行の場所として草庵(そうあん)が設けられていたことが、『懐風藻(かいふうそう)』の麻田連陽春(あさだのむらじやす)の詩からわかる。延暦寺は、最澄が12歳で近江(滋賀県)の国分寺に入り、得度(とくど)・受戒(じゅかい)ののち785年(延暦4)「願文(がんもん)」をつくり、堅い修行の決意をもって比叡山へ入り、草庵を結んだのに始まる。788年に根本中堂を建て自作の薬師仏を安置したといい、のち一乗止観院(いちじょうしかんいん)と称した。平安京が営まれたのは入山後9年目で、のちに延暦寺は皇城鎮護の寺とされた。最澄は還学生(げんがくしょう)(遣唐使に随行して唐へ往復する学徒)として入唐(にっとう)、天台宗の根拠地天台山その他を訪れ、天台、密教、大乗戒、禅を受けて帰国、806年、年分度者(ねんぶんどしゃ)(毎年天台宗の僧として得度・受戒すべき僧)の割当て2名を得て、天台宗が独立した宗派として公認された。その後、最澄は会津の徳一などと教理論争を行い、また、当時日本中に3か所のみであった戒壇(かいだん)を新しく比叡山上にも設け、大乗戒だけを授けることにより、天台宗を純粋な大乗の僧を養成する宗派として奈良の仏教教団から独立させようとした。これは822年(弘仁13)最澄の没後7日目に許可され、翌年には延暦寺の勅額を賜った。
最澄の門下に義真(ぎしん)、円澄(えんちょう)らが輩出し、堂塔を増建したが、最澄が唐から伝えた教学のなかでは密教が不十分で、慈覚(じかく)大師円仁、智証(ちしょう)大師円珍(えんちん)が入唐して密教を伝えた。安然(あんねん)に至って天台の密教(台密(たいみつ)と略称)は大成され、真言宗と相まって、平安時代は密教中心の時代となった。天台内では慈覚大師系と智証大師系が対立抗争するようになり、ついに智証大師の系統の僧は993年(正暦4)園城寺(おんじょうじ)へ移り、山門(延暦寺)と寺門(園城寺)に分かれ、互いに焼打ちをするなど抗争を繰り返した。それとともに山中には僧兵が養われるようになった。また、慈覚大師流は平安中期に谷流(たにのりゅう)(東塔南谷の皇慶(こうけい)の法流)と川流(かわのりゅう)(横川の覚超(かくちょう)の法流)に分かれ、それらはさらにまた細かく分派し、台密十三流にも細分化されていった。
円仁は唐の五台山の法照流念仏を導入し、横川に首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建て、『法華経』の写経(如法経(にょほうきょう))を始めた。平安中期には浄土思想が隆盛となり、比叡山中興の祖慈慧(じえ)大師(元三(がんさん)大師)良源(りょうげん)、その弟子源信(げんしん)、覚運(かくうん)らはいずれも浄土信仰を鼓吹した。なかでも、恵心僧都(えしんそうず)源信は横川恵心院に住し、『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著した。また、空也(くうや)は全国を回って(遊行(ゆぎょう))念仏を広めて市聖(いちのひじり)などとよばれ、良忍(りょうにん)は比叡山から大原(おおはら)に隠棲(いんせい)し、阿弥陀仏(あみだぶつ)の教えを受けて融通(ゆうずう)念仏の基をつくり、全国を遊行した。貴族の間でも念仏が尊重され、阿弥陀堂や阿弥陀仏が多くつくられるなど、日本の浄土教発展の基ともなった。
平安末期から鎌倉時代にかけ、比叡山で学問・修行した僧が比叡山を出て新しい宗派をつくった。15歳から43歳まで延暦寺で学んだ法然(ほうねん)(源空(げんくう))が浄土宗、9歳から29歳まで学んだ親鸞(しんらん)が浄土真宗の開祖となり、浄土宗の聖達(しょうたつ)の弟子一遍(いっぺん)(智真(ちしん))が時宗(じしゅう)を開創した。また、19歳で比叡山に入った栄西(えいさい)が臨済(りんざい)宗、13歳から18歳までの道元(どうげん)が曹洞(そうとう)宗、22歳から32歳までの日蓮(にちれん)が日蓮宗を開いた。
一方、平安中期より僧兵が力をもち、園城寺などと争い、日吉(ひえ)の神輿(しんよ)を奉じて朝廷へ強訴(ごうそ)し、また南北朝の抗争などに一翼を担い、建武(けんむ)新政で南朝の側についた。しかし、1571年(元亀2)織田信長に全山焼打ちされ全焼、数千人が殺された。その後、豊臣(とよとみ)秀吉から山門再興の許可を得、秀吉、徳川家康より領地を与えられて復興した。天台宗の天海(てんかい)が家康の側近として力を振るい、江戸・上野に東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)を建て、家康を日光の東照宮に葬るなど、大きな功績を残すとともに延暦寺の復興に力を尽くし、江戸時代には根本中堂など堂塔の再建が行われた。
なお、日吉山王社(ひえさんのうしゃ)は、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に基づき延暦寺の鎮守と尊崇され、天台宗の教理的裏づけを得て、山王一実(さんのういちじつ)神道(山王神道)がおこり、発展した。しかし明治維新の神仏分離により比叡山から分離独立した。
[田村晃祐]
三塔
東塔、西塔、横川はそれぞれ異なった歴史をもって発展し、五・五・六の各谷に堂塔が点在している。
東塔は、北谷、南谷、西谷、東谷、無動寺(むどうじ)谷の五谷に分かれる。ここには延暦寺の中心である根本中堂(国宝)があり、不滅の法燈(ほうとう)を伝え、最澄の創建当時の寺の形を伝える三つの厨子(ずし)を収める。そのほかおもな堂塔に、受戒の場所である一乗戒壇院、僧侶(そうりょ)の学問研究のための大講堂、根本中堂への門の役目をなす文殊楼(もんじゅろう)、灌頂(かんじょう)や受戒の行われる法華(ほっけ)総持院東塔、最澄の廟所(びょうしょ)である浄土院などがあり、また無動寺谷には、回峰行(かいほうぎょう)の中心である無動寺がある。
西塔は、東谷、南谷、北谷、南尾谷、北尾谷の五谷および別所黒谷に分かれ、山上最古の堂である鎌倉様式の釈迦堂(しゃかどう)(転法輪堂)、常行三昧(じょうぎょうさんまい)を行う常行堂、法華三昧を行う法華堂がある。常行堂と法華堂は廊下でつながっていて、俗に「弁慶のにない堂」とよばれる。釈迦堂の後ろの丘には相輪のみが地上に屹立(きつりつ)する相輪橖(とう)がある。
横川は、香芳(かほう)谷、都率(とそつ)谷、戒心(かいしん)谷、般若(はんにゃ)谷、解脱(げだつ)谷、飯室(いむろ)谷の六谷と、別所安楽(あんらく)谷に分かれ、円仁の開創になる横川中堂、円仁により始められた写経を収める根本如法塔、恵心僧都の住した恵心院、良源の住房跡の元三大師堂(四季講堂)、僧の修行所の行院などがある。
[田村晃祐]
年中行事
延暦寺の多くの堂塔で行われる年中行事は50種類にも及ぶが、そのなかのおもなものについて記す。「修正会(しゅしょうえ)」は除夜から1月3日にかけて行われ、とくに根本中堂で篝火(かがりび)のなかで行われる厄除鬼追(やくよけおにおい)の儀式が有名である。「御衣加持御修法(ぎょいかじみしほう)」は4月4日から11日まで根本中堂で行われ、天皇の御衣を祀(まつ)って国家の平和と繁栄を祈る。「如法写経会(にょほうしゃきょうえ)」は7月初旬に横川中堂で行われ、円仁に始まる『法華経』の写経を行う。「戸津説法(とづせっぽう)」は8月21日から25日まで琵琶(びわ)湖畔東南寺で『法華経』の説法を行う。「霜月会(しもづきえ)」は大講堂で天台大師(智顗(ちぎ))の忌日(10月23、24日)にその報恩のために行われる。「法華大会(ほっけだいえ)」は5年に一度、大講堂で国家の繁栄と仏法の隆盛を祈り、天台教学について論義が行われ、正式には広学竪義(こうがくりゅうぎ)とよばれる。
比叡山では厳しい止観(しかん)の修行が行われる。なかでも浄土院で12年間を籠山(ろうざん)し、学問修行と礼拝(らいはい)行を勤め上げる。また平安初期に相応(そうおう)和尚(831―918)によって始められたという千日回峰行(かいほうぎょう)は、7年間にわたり1000日間峰々を回り、あるいは京都までも足を伸ばし、9日の断食(だんじき)・断水の行を含む難行として知られる。
[田村晃祐]
寺宝
『伝教大師将来目録(でんぎょうだいししょうらいもくろく)』『羯磨金剛(かつまこんごう)目録』『天台法華宗年分縁起』『六祖恵能(えのう)伝』『嵯峨(さが)天皇宸翰光定戒牒(しんかんこうじょうかいちょう)』『伝教大師入唐牒』などの書跡や、「金銅経箱」「法相華蒔絵(ほっそうげまきえ)経箱」、伝教大師将来の七条刺納袈裟(しちじょうしのうげさ)と刺納衣(しのうえ)が国宝に指定されている。そのほか、天台大師画像、五大明王像、行福(ぎょうふく)筆「華厳(けごん)要義問答」など国重要文化財も多い。なお、延暦寺は1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。
[田村晃祐]
『上野文秀著『日本天台史』(1936・破塵閣書房)』▽『木内堯央著『最澄と天台教団』(教育社・歴史新書)』▽『景山春樹・村山修一著『比叡山』(NHKブックス)』▽『景山春樹著『比叡山寺』(1978・同朋舎出版)』