…94年卒業と同時に同校助教授に任ぜられるが,98年岡倉天心が美術学校を辞して日本美術院を創立するに際し,橋本雅邦,横山大観らとともに母校を退き,美術院正員となる。以来,日本美術院が日本絵画協会と連合して開催した共進会に,洋風の陰影法と色彩感覚をとりいれた《闍維(じやい)》,大和絵研究に基づく《修羅道絵巻》,色彩によって空間を処理してゆく没線描法ともいうべき,いわゆる朦朧(もうろう)体の《大原の露》など,近代日本画の方向を暗示する作品を発表した。1903年ふたたび東京美術学校教授となり,文部省留学生として渡欧する。…
…東洋画の〈気韻〉の上に自然主義の立場にたつ外光派の色彩感覚を取りいれた没線(もつせん)彩画(刷毛を用いた色面描写)を横山大観とともに試み,《武蔵野》《菊慈童》《雲中放鶴》《釣帰》《蘇李訣別》《王昭君》などを発表。世人は人物の無線描法を含むこれらの作品に対して日本画の節操を捨てるものとして,侮蔑の意味をこめてヌエ派とか朦朧体(もうろうたい)と呼んだ。1903年大観とインドへ,また04‐05年天心,大観とともにアメリカ,ヨーロッパに旅行して作品展を開催。…
…彼らは西洋画の造形方法である写実表現と正面から対決し,伝統的な線描を用いずに色彩のみによって濃淡の調子を整え,空気や光線を表現する新しい描法を生み出した。ただし,この新たな没線(もつせん)描法は揶揄をこめて朦朧(もうろう)体,縹緲(ひようびよう)体と呼ばれた。しかし日本美術院の新美術運動は京都の日本画家に大きな刺激を与え,菊池芳文(1862‐1918),竹内栖鳳,山元春挙(1871‐1933)らも西洋画の写生をとり入れ,日本美術院に呼応して新機運の打開に努めることとなる。…
…第5回絵画共進会(第1回院展)に発表した《屈原》は,校長をやめた天心の心中を表したものであった。またその表現技法は当時の日本画の革新運動の尖端を示すものであったが,没線主彩の新画体は〈朦朧体(もうろうたい)〉の悪評をうけた。1903年菱田春草とともにインドに遊び,翌年天心,春草らとアメリカ,さらにヨーロッパを巡遊して展覧会などを行い,05年に帰国。…
※「朦朧体」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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