精選版 日本国語大辞典 「東京日日新聞」の意味・読み・例文・類語
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1872年(明治5)2月21日に創刊された東京初の日刊紙。条野採菊(じょうのさいぎく)(戯作(げさく)者)、落合芳幾(よしいく)(浮世絵師)、西田伝助(本屋の番頭)が発刊した新聞だが、翌73年甫喜山(ほきやま)景雄、岸田吟香(ぎんこう)が入社、岸田は74年5月台湾出兵に初めて従軍、紙上をにぎわわせた。ついで福地桜痴(おうち)が入社、12月2日から社説を掲載するとともに「太政官(だじょうかん)記事印行御用」を掲げて権威を高め、代表的大(おお)新聞としての性格と地位を固めた。以後、福地の論説は政府ならびに各界に影響を及ぼすとともに、政府の官報の役割を果たした。
しかし、自由民権運動が盛んになるとともに、福地の主権在君論や漸進主義は、しだいに「御用記者」との批判を強め、82年、福地が政府支持の帝政党を組織したころから『東京日日新聞』の勢力は失墜し始めた。85年には勢力挽回(ばんかい)のため、わが国で初めて朝夕刊発行を1年間試みたりしたが形勢は変わらず、88年7月福地は退社、以後、関直彦(せきなおひこ)、伊東巳代治(みよじ)、朝比奈知泉(ちせん)が主宰し、伊藤博文(ひろぶみ)、井上馨(かおる)、山県有朋(やまがたありとも)らの長州閥系紙となる。日露開戦のときは、伊藤の政策を支持、最後まで対露外交交渉を説いた。1904年(明治37)三菱(みつびし)の手に渡るが欠損が続き、11年3月『大阪毎日新聞』の経営下に入り、全国紙へと発展(題号はそのまま)、43年(昭和18)1月『毎日新聞』に題号を統一した。
[春原昭彦]
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1872年(明治5)2月11日に条野伝平・西田伝助・落合芳幾(よしいく)によって創刊された新聞。74年福地源一郎(桜痴(おうち))が主筆として入社,のちに社長に就任して国会開設漸進を主張し,政府の御用新聞と目された。この頃が最盛期で発行部数は82年頃約7000部であったが,自由民権運動が衰退すると社勢も衰え,87年には福地の手を離れた。91年伊東巳代治の所有に移り,朝比奈知泉(ちせん)が主筆となった。1904年に加藤高明に売却されたが経営は苦しく,08年加藤は実質的に手を引き,11年大阪毎日新聞社に売却され,題字はそのままだが同社の経営となった。43年(昭和18)1月1日,東京・大阪の題字を「毎日新聞」に統一して紙名は消えた。
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…さらに大新聞の記者が旧幕臣を中心とした士族出身であるのに対し,小新聞の記者は戯作者を中心とした庶民出身であった。読者層でも両者の識別は鮮明で,〈日々新聞ノ如キ紙幅大ニシテ,且ツ勿論其議論高尚ナルヲ以テ,中等以上ノ人民之レヲ読ミ,又夫ノ仮名付小新聞ノ如キハ,平均セバ下等社会ノ読ム所ナルベケレ〉(《東京日日新聞》1878年2月13日)といわれるように,大新聞は中・上流社会に,小新聞は下流社会に,主として読まれていた。 大新聞は政論新聞ともいわれた。…
…御用新聞であることが,官尊民卑の風潮のなかで民衆からの信用と尊敬をえるのに大きく役だった。1874年に《東京日日新聞》が太政官記事御用達を掲げだすと,部数は急増し,社長兼主筆の福地桜痴の名声も高まった。しかし自由民権運動の高まりとともに,政府批判と御用新聞批判が連動し,御用新聞の代表格である《東京日日新聞》への批判が高まってきた。…
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【日本の新聞の特徴】
(1)日本の新聞は,一般紙の多くが朝・夕刊を一組として発行する〈ワンセット制〉を採用している。これは1885年《東京日日新聞》,岡山の《山陽新報》が始めたのが最初だが,時期尚早で永続せず,年内に朝刊のみに復した。しかし1906年《報知新聞》が日露戦争後,ニュース量が増えたことに伴いワンセット制とし,さらに15年《大阪朝日新聞》《大阪毎日新聞》が,第1次大戦の速報と大正天皇即位式典に伴うニュース量の増大に対処するために朝・夕刊発行に移行して以後,ワンセット制が各紙に採用されることとなった。…
… 画像による伝達と言語による伝達は互いに機能特性が異なり,そのため古くから言語を補う意味で,新聞などの印刷媒体には挿絵(イラストレーション)が利用されていた。1872年(明治5)に発刊した日刊紙《東京日日新聞》でも錦絵が使われていたという。この時点ではすでに写真は実用化していたのだから,その新聞への利用も当然考えられることであったが,写真が大量印刷で使用されるようになるのはずっと遅れて,20世紀初頭になってからである。…
…日本の代表的新聞の一つ。《大阪毎日新聞(《大毎》)》と《東京日日新聞(《東日》)》がその前身。《大毎》は1876年2月,西川甫(はじめ)(1831‐1904)を社主に《大阪日報》として創刊,82年筆禍対策の〈身代り紙〉として興された《日本立憲政党新聞》に事実上受け継がれた(号数もこれから継承している)。…
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