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横山大観 よこやま たいかん

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美術人名辞典の解説

横山大観

日本画家。茨城県生。名は秀麿。岡倉天心橋本雅邦に学ぶ。天心の日本美術院創立に参加、また日本美術院を再興し中心作家として活躍。明治・大正・昭和の三代にわたり第一線で日本画を革新し続けた。文展審査員・帝室技芸員帝国美術院会員。朝日文化賞受賞。文化功労者文化勲章受章。昭和33年(1958)歿、89才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

横山大観

水戸藩士の子に生まれる。東京美術学校(現東京芸術大)に入学し、校長の岡倉天心に師事する。明治から昭和にかけて日本画壇を先導し、代表作は「生々流転」「夜桜」「紅葉」など。1937年に第1回文化勲章を受章。

(2010-03-24 朝日新聞 朝刊 奈良1 1地方)

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デジタル大辞泉の解説

よこやま‐たいかん〔‐タイクワン〕【横山大観】

[1868~1958]日本画家。茨城の生まれ。本名、秀麿。岡倉天心橋本雅邦に師事し、日本美術院の創立に参加。天心没後は再興日本美術院を主宰。朦朧体(もうろうたい)とよばれる画風を試みるなど、日本画の近代化に大きな足跡を残した。また、水墨画でも新境地を開拓。文化勲章受章。

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百科事典マイペディアの解説

横山大観【よこやまたいかん】

日本画家。水戸の生れ。本名秀麿。東京美術学校の第1回生として橋本雅邦岡倉天心に学び,1896年同校助教授となった。1898年天心の校長辞任に殉じて退職し,日本美術院の創立に参加,菱田春草とともにその中心的存在となった。
→関連項目足立美術館茨城県近代美術館北茨城[市]小杉放庵静岡県立美術館

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

横山大観 よこやま-たいかん

1868-1958 明治-昭和時代の日本画家。
明治元年9月18日生まれ。橋本雅邦(がほう)にまなぶ。明治29年東京美術学校助教授となるが,31年校長の岡倉天心らと辞職,日本美術院に参加。大正3年日本美術院を再興し,近代日本画の中心作家として活躍した。昭和12年文化勲章。昭和33年2月26日死去。89歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。旧姓は酒井。本名は秀麿。代表作に「生々流転」「海山十題」など。
【格言など】芸術は終生が修業である

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朝日日本歴史人物事典の解説

横山大観

没年:昭和33.2.26(1958)
生年:明治1.8.19(1868.10.4)
明治から昭和にかけての日本画家。名は秀麿。水戸藩士酒井捨彦,寿恵の長男。水戸生まれ。生年月日は戸籍上のものだが,大観本人は,太陰暦の8月19日から1カ月ずらした9月18日を誕生日としていた。明治21(1888)年,横山家の養子となる。26年,東京美術学校(東京芸大)第1期生として卒業。28年,大観を名乗る。翌年,東京美術学校助教授となるが,31年,同校騒動により連袂辞職し,日本美術院創設に加わる。30年代に試みた没線描法(朦朧体)をはじめ日本画の近代化を積極的に実践。五浦の苦難時代を経て,大正3(1914)年下村観山らと日本美術院を再興。以後院の中心として活躍。代表作に「瀟湘八景」(1912,東京国立博物館蔵),「生々流転」(1923,東京国立近代美術館蔵)などがある。明治,大正,昭和の3代にわたり常に画壇の第一人者であり,昭和期には画壇のみならず,社会的にも大きな影響力を持った。

(藤本陽子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

よこやまたいかん【横山大観】

1868‐1958(明治1‐昭和33)
日本画家。水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸市に生まれる。幼名秀蔵。1878年一家をあげて上京,東京府立中学校を経て87年私立英語学校を卒業。母方の横山家を継ぎ,秀麿と改名。結城正明に絵の手ほどきをうけ,89年新設の東京美術学校に入学。日本画科第1回生として橋本雅邦に学び,とくに校長岡倉天心に信頼され終生その強い感化をうける。93年の卒業制作は,師雅邦を翁に見立て同窓生を村童のモデルにした《村童観猿翁》であった。

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大辞林 第三版の解説

よこやまたいかん【横山大観】

1868~1958) 日本画家。茨城県生まれ。東京美術学校卒。本名は秀麿。橋本雅邦に学び岡倉天心の感化を受けた。菱田春草とともに朦朧体もうろうたいと呼ばれる画法を試み、近代日本画に一典型をつくった。日本美術院創設に参加、天心没後これを再興主宰した。代表作「無我」「生々流転」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

横山大観
よこやまたいかん

[生]1868.9.18. 水戸
[没]1958.2.26. 東京
日本画家。水戸藩士酒井捨彦の長男。本名は秀蔵,のち横山家に入籍し秀麿と改名。 1889年に東京美術学校日本画科第1回生として入学し,岡倉天心橋本雅邦の指導を受けた。 1893年卒業後しばらく京都府画学校教諭を務め,かたわら古画の模写を行なった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

横山大観
よこやまたいかん
(1868―1958)

日本画家。本名秀麿。水戸藩士酒井捨彦の長男として9月18日水戸に生まれ、のち母方の横山家を継いだ。1878年(明治11)一家と上京。東京府立中学校、私立東京英語学校を経て、1889年開校した東京美術学校に入学、橋本雅邦(はしもとがほう)の指導を受け、また岡倉天心(おかくらてんしん)に薫陶された。1893年に同校を卒業。『村童観猿翁(そんどうえんおうをみる)』はその卒業制作。しばらく京都美術工芸学校で教鞭(きょうべん)をとったのち、1896年母校の助教授になった。1898年に美術学校に校長天心を排斥する騒動が起こると、天心、雅邦らと連袂(れんべい)辞職、日本美術院創立に加わった。第1回展に出品の『屈原(くつげん)』は初期を代表する作。美術院では菱田春草(ひしだしゅんそう)らと日本画の近代化を企図し、大胆な没線描法を試みたが、朦朧派(もうろうは)と悪評されて苦闘を強いられた。
 1903年(明治36)春草とともにインドに赴き、また翌年天心に従って春草らと渡米、1905年ヨーロッパを回って帰国。1906年美術院日本画部の茨城県五浦(いづら)への移転に伴い同地に移った。1907年の第1回文展に審査員として『二百十日』ほかを出品。なお『流燈(りゅうとう)』『山路(やまじ)』『瀟湘八景(しょうしょうはっけい)』などが初期の文展に出品されている。1908年五浦の家が火災にあって上野池之端(いけのはた)に移転。1914年(大正3)同志と日本美術院を再興した。以後美術院の中心として活躍し、再興第1回展に『游刃有余地(ゆうじんよちあり)』、第3回展に『作右衛門の家』、第6回展に『山窓無月(さんそうむげつ)』、第8回展に『老子』、第10回展に『生々流転(せいせいるてん)』などを出品、東洋の伝統に基づく近代日本画の創成を目ざして画壇に重きをなした。1930年(昭和5)ローマ日本美術展に際し美術使節として渡伊。1931年帝室技芸員、1935年帝国美術院会員にあげられ、1937年第1回の文化勲章を受章した。ほかに『無我(むが)』『五柳先生(ごりゅうせんせい)』『柳蔭(りゅういん)』『野の花』、『或(あ)る日の太平洋』などが著名。昭和33年2月26日東京で没。上野池之端の旧邸は横山大観記念館として公開されている。[原田 実]
『横山大観著『大観画談』(1951・講談社) ▽横山大観記念館監修『横山大観』全5巻(1979・大日本絵画) ▽細野正信解説『現代日本美術全集2 横山大観』(1971・集英社) ▽河北倫明・飯島勇解説『現代日本絵巻全集2・3 横山大観』(1982、1983・小学館) ▽河北倫明編著『大観』(1962・平凡社) ▽横山大観伝記編纂委員会編『横山大観伝』(1959・茨城県)』

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世界大百科事典内の横山大観の言及

【戦争画】より

…39年これら従軍画家が陸軍美術協会を結成し,陸軍報道部の支援をうけて勢威をもつと,それにならって海軍美術協会,航空美術協会,忠愛美術院などの御用団体が簇生し,40年大政翼賛会の傘下団体となった。太平洋戦争に入ると,陸海軍は中堅以上のめぼしい美術家を報道班員として戦地に動員し,作戦記録画と宣撫工作にあたらせ,42年横山大観を会長とする大日本美術報国会が発足した。43年結成の美術及工芸資材統制会が,配給権を独占して思想・表現の傾向により材料を割り当てたため,戦争画以外は制作・発表の道を断たれた。…

【日本美術院】より

…〈美術院〉の称は大学における大学院を意識したものという。院には研究,制作,展覧の3部門を置き,機関誌《日本美術》を発行,開院と同時に日本絵画協会と連合で開いた展覧会には横山大観,下村観山,菱田春草,小堀鞆音,竹内栖鳳らが力作を出品し,世間の注目を集めた。見事な旗揚げであったが,数年ののちには早くも不振に陥る。…

【明治・大正時代美術】より

…西洋画のように単に形象の真を描くのではなく,洋風の写実の方法をとり入れながら,日本美術の伝統的な性格である観念=理想を表現すべし,というのである。やがて内紛から美校を追われ,98年に日本美術院を創立した岡倉のもとには,美校時代の門下生,横山大観,下村観山,菱田春草らが岡倉の理想を実現しようと集まる。彼らは西洋画の造形方法である写実表現と正面から対決し,伝統的な線描を用いずに色彩のみによって濃淡の調子を整え,空気や光線を表現する新しい描法を生み出した。…

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