木下家定(読み)きのした・いえさだ

朝日日本歴史人物事典 「木下家定」の解説

木下家定

没年:慶長13.8.26(1608.10.4)
生年天文12(1543)
安土桃山時代の武将。杉原定利の子。豊臣秀吉正室ねね(北政所,のちの高台院)の実兄。通称は孫兵衛,肥後守。先祖は平姓を称する播磨国の土豪で,室町時代に尾張国朝日村に移住したという。家定も初め杉原家を継いだが,のちに名字を木下と改めた。妹ねねの縁により秀吉直臣となり,天正15(1587)年9月,播磨に1万1341石を与えられ,次いで従五位下,肥後守に叙任,羽柴氏・豊臣姓を授けられた。さらに従三位,中納言に昇進。文禄4(1595)年8月,2万5000石に加増され,姫路城主となり,大坂城の留守居にも任ぜられた。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,高台院警護の任にあったため難を免れ,同年徳川家康により備中国賀陽・上房両郡2万5000石に移封,足守城主となった。そして同9年7月,二位,法印に叙せられ浄英と号し,同13年京都で死去した。遺領は一時没収されて浅野長晟に預けられたが,元和1(1615)年の大坂夏の陣後,次男利房が足守城主2万5000石の相続を許された。なお長男の勝俊は関ケ原の戦後若狭小浜6万2000石を没収されて浪人となるが,歌人長嘯子として有名。3男延俊は豊後日出藩主,5男秀秋は小早川家の養子となった。<参考文献>『平姓杉原氏御系図附言』

(二木謙一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「木下家定」の解説

木下家定 きのした-いえさだ

1543-1608 織豊-江戸時代前期の大名
天文(てんぶん)12年生まれ。木下長嘯子(ちょうしょうし),木下利房,小早川秀秋の父。豊臣秀吉の正室高台院の兄。尾張(おわり)(愛知県)の人。秀吉に重用され,文禄4年播磨(はりま)(兵庫県)姫路城主。関ケ原の戦いでは高台院の守護にあたる。のち徳川家康に属し,慶長6年備中(びっちゅう)(岡山県)足守(あしもり)藩主木下家第1次初代。2万5000石。慶長13年8月26日死去。66歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の木下家定の言及

【木下氏】より

…近世大名。豊臣秀吉の生家木下氏と秀吉の妻(高台院)の実家杉原氏流木下氏がある。秀吉の父弥右衛門は織田信秀の足軽で尾張中村の百姓。秀吉は信長に仕え木下藤吉郎と名のるが,出世に伴い1573年(天正1)羽柴氏に,さらに86年豊臣氏に改姓した。杉原氏は定利の女が秀吉の妻(北政所)となり,秀吉の一族として繁栄,北政所の伯父家次は秀吉に仕え丹波福知山城主となった。兄家定は秀吉に近侍し木下姓に改めて播磨姫路城主,関ヶ原の戦後備中足守(あしもり)に移封された。…

【備中国】より

…なお蒔田氏は参勤交代をしない定府大名である。足守藩は賀陽郡足守(岡山市)に陣屋をもつ2万5000石の外様小藩で,1601年秀吉正室ねねの実兄である木下家定が立藩した。のち一時幕領,私領となったが,15年家定の子利房が藩主に返り咲き,以後11代256年同氏が在封した。…

※「木下家定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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