朝日日本歴史人物事典 「木下家定」の解説
木下家定
生年:天文12(1543)
安土桃山時代の武将。杉原定利の子。豊臣秀吉の正室ねね(北政所,のちの高台院)の実兄。通称は孫兵衛,肥後守。先祖は平姓を称する播磨国の土豪で,室町時代に尾張国朝日村に移住したという。家定も初め杉原家を継いだが,のちに名字を木下と改めた。妹ねねの縁により秀吉の直臣となり,天正15(1587)年9月,播磨に1万1341石を与えられ,次いで従五位下,肥後守に叙任,羽柴氏・豊臣姓を授けられた。さらに従三位,中納言に昇進。文禄4(1595)年8月,2万5000石に加増され,姫路城主となり,大坂城の留守居にも任ぜられた。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,高台院警護の任にあったため難を免れ,同年徳川家康により備中国賀陽・上房両郡2万5000石に移封,足守城主となった。そして同9年7月,二位,法印に叙せられ浄英と号し,同13年京都で死去した。遺領は一時没収されて浅野長晟に預けられたが,元和1(1615)年の大坂夏の陣後,次男利房が足守城主2万5000石の相続を許された。なお長男の勝俊は関ケ原の戦後若狭小浜6万2000石を没収されて浪人となるが,歌人長嘯子として有名。3男延俊は豊後日出藩主,5男秀秋は小早川家の養子となった。<参考文献>『平姓杉原氏御系図附言』
(二木謙一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報