木下長嘯子(読み)キノシタチョウショウシ

デジタル大辞泉 「木下長嘯子」の意味・読み・例文・類語

きのした‐ちょうしょうし〔‐チヤウセウシ〕【木下長嘯子】

[1569~1649]江戸初期の歌人豊臣秀吉の妻、北の政所まんどころおい。名は勝俊。小浜城主。関ヶ原の戦いのあと、京都東山に隠棲細川幽斎和歌を学び、近世和歌革新の先駆者となった。歌文集「挙白集」「若狭少将勝俊朝臣集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「木下長嘯子」の意味・読み・例文・類語

きのした‐ちょうしょうし【木下長嘯子】

  1. 江戸初期の歌人。小浜城主。豊臣秀吉の妻、北政所の兄家定の子。名は勝俊。別号、挙白堂、天哉翁。尾張の人。関ケ原の戦の後、封を没収され、京都東山、のち西山大原に隠棲。国学、漢学に通じ、自由清新な歌風によって近世和歌革新の先駆となる。著に「挙白集」「九州の道の記」「若狭少将勝俊朝臣集」など。永祿一二~慶安二年(一五六九‐一六四九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「木下長嘯子」の意味・わかりやすい解説

木下長嘯子
きのしたちょうしょうし
(1569―1649)

江戸前期の歌人。名は勝俊(かつとし)。長嘯、天哉(てんさい)などと号し、堂号に挙白堂(きょはくどう)などがある。豊臣(とよとみ)秀吉の正室寧子(ねね)(北政所(きたのまんどころ))の弟木下家定の嫡男。播磨(はりま)国(兵庫県)龍野(たつの)城主を経て、若狭(わかさ)国(福井県)小浜(おばま)城主となったが、関ヶ原の役後、封を奪われ、32歳で京都東山に隠棲(いんせい)、藤原惺窩(せいか)、林羅山(らざん)、松永貞徳、小堀遠州など多くの文化人たちと交わりながら、文雅を楽しむ生活を送った。晩年72歳以後は、京都の西郊小塩山麓(おしおさんろく)に移居、慶安(けいあん)2年6月15日、81歳で没した。和歌は細川幽斎に学んだが、師の二条家歌学尊重の立場を越えて自由闊達(かったつ)な詠風を示し、当時の歌壇に異彩を放った。またその文章も、和漢の古典を豊かに踏まえながら、ときに諧謔(かいぎゃく)味を加えた独特なもので、ものにとらわれぬ自在な精神が脈打ち、後の芭蕉(ばしょう)、其角(きかく)などの俳人にも影響を与えた。家集に『挙白集』(1649刊)がある。

[嶋中道則]

 里は荒れて燕(つばめ)ならびし梁(うつばり)の古巣さやかに照らす月かげ

『吉田幸一編『長嘯子全集』全6巻(1972~75・古典文庫)』

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百科事典マイペディア 「木下長嘯子」の意味・わかりやすい解説

木下長嘯子【きのしたちょうしょうし】

安土桃山時代の武将,江戸初期の歌人。名は勝俊。豊臣秀吉の正室北政所(きたのまんどころ)の甥。小浜(おばま)城主,左近衛権少将(さこんえのごんのしょうしょう)。関ヶ原の戦後,徳川氏に封を奪われて32歳で隠棲。隠遁(いんとん)前から和歌をたしなみ,細川幽斎とも接する。隠退後は風流三昧(ざんまい)に世を送る。歌風は,二条派をきらい,放胆な表現を好み,ときに俳諧(はいかい)歌に近い。家集は《挙白集》。小早川秀秋の兄。
→関連項目安楽庵策伝下河辺長流

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「木下長嘯子」の意味・わかりやすい解説

木下長嘯子
きのしたちょうしょうし

[生]永禄12(1569).尾張
[没]慶安2(1649).6.15. 京都
江戸時代前期の歌人。本名,勝俊。豊臣氏とも称す。豊臣秀吉の室高台院寧子 (ねね) の甥。秀吉に仕え,小浜城主,左近衛少将にいたる。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦い後,東山霊山に閑居 (のち西山大原に移る) ,剃髪して長嘯子と号し,没するまで風流隠逸の生活をおくった。別号,挙白堂,天哉など。和歌を細川幽斎などに学び,藤原惺窩 (せいか) ,林羅山らの儒者,松永貞徳らの俳人,小堀遠州らの茶人,安楽庵策伝らと交友があり,近世初期文壇の一中心をなした。和歌は伝統にとらわれない態度で,清新な題材,自由な表現をとり一時期を画したが,旧派からの非難も少くなかった。文才も豊かで『九州の道の記』 (1592) のほか,紀行その他が歌文集『挙白集』に収められている。芭蕉その他への影響も大きい。

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改訂新版 世界大百科事典 「木下長嘯子」の意味・わかりやすい解説

木下長嘯子 (きのしたちょうしょうし)
生没年:1569-1649(永禄12-慶安2)

江戸前期の歌人。名は勝俊。別号挙白人。父は木下肥後守家定。豊臣秀吉の北政所は伯母。若狭守となり小浜城に入る。左近衛権少将。関ヶ原の戦後はみずから隠居して京都東山の霊山などに住み,松永貞徳,九条道房などの儒家,縉紳と交わった。和歌は細川幽斎に学ぶ。堂上二条派の伝統にとらわれず,自由闊達な歌風。近世初頭武士の典型的隠者である。家集《挙白(きよはく)集》,紀行文《九州のみちの記》がある。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「木下長嘯子」の解説

木下長嘯子 きのした-ちょうしょうし

1569-1649 織豊-江戸時代前期の大名,歌人。
永禄(えいろく)12年生まれ。木下家定の長男。豊臣秀吉につかえ,文禄(ぶんろく)3年若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)城主。慶長13年備中(びっちゅう)(岡山県)足守(あしもり)藩主木下家第1次2代。翌年徳川家康の怒りにふれて所領没収となり,京都東山に隠棲。和歌を細川幽斎にまなび,清新自由な歌風で知られた。慶安2年6月15日死去。81歳。名は勝俊。別号に挙白堂。歌集に「挙白集」。

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世界大百科事典(旧版)内の木下長嘯子の言及

【歌論】より

…《万葉代匠記》は,下河辺長流(しもこうべちようりゆう)が水戸光圀に請われてはじめた万葉集注釈の作業を,長流老齢のため引き継いだ仕事であった。長流の師は《万葉集》を尊重した木下長嘯子である。つまり,長嘯子,長流,契沖という《万葉集》尊重の立場に立つ系譜が成立しつつあったのであり,こうしたなかから,田安宗武,賀茂真淵らが出たのである。…

【木下氏】より

…近世大名。豊臣秀吉の生家木下氏と秀吉の妻(高台院)の実家杉原氏流木下氏がある。秀吉の父弥右衛門は織田信秀の足軽で尾張中村の百姓。秀吉は信長に仕え木下藤吉郎と名のるが,出世に伴い1573年(天正1)羽柴氏に,さらに86年豊臣氏に改姓した。杉原氏は定利の女が秀吉の妻(北政所)となり,秀吉の一族として繁栄,北政所の伯父家次は秀吉に仕え丹波福知山城主となった。兄家定は秀吉に近侍し木下姓に改めて播磨姫路城主,関ヶ原の戦後備中足守(あしもり)に移封された。…

【挙白集】より

…江戸初期の歌文集。木下勝俊(木下長嘯子)詠,打它公軌(うつだきんのり)・景軌・山本春正編。1649年(慶安2)刊。…

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