副王制(読み)ふくおうせい(その他表記)virreinato[スペイン]

改訂新版 世界大百科事典 「副王制」の意味・わかりやすい解説

副王制 (ふくおうせい)
virreinato[スペイン]

構成各国が独自の体制を維持しつつ,ひとつの王権を共有するという特異な連邦国家を形成したアラゴン連合王国の統治制度。16世紀以降インディアスでも施行された。1137年,イベリア半島東部アラゴン王国の王女ペトロニーラとカタルニャ伯ラモン・ベレンゲール4世が結婚,これによって以後両国は〈アラゴン連合王国〉と呼ばれる連邦国家となった。しかし,連邦の絆となったのは共通の王権だけであって,政治的独立や法律あるいは行政制度はまったく従来のままに残された。このために国王が2国のうちのいずれかを不在にするという重大な政治問題が惹起され,解決策として出てきたのが副王virreyの任命だった。

 副王の祖型はアルフォンソ2世が1178年,当時彼の版図に入っていた南仏プロバンス公国の統治を任せた王弟ラモン・ベレンゲールの例に見ることができる。13世紀後半以降,アラゴン王権の支配がシチリア,サルデーニャ,ギリシアの一部へと拡張されていくにつれて,副王制は大いにその効果を発揮した。国王不在の間,副王は〈もうひとりの国王alter ego〉として国政全般を統轄した。

 近代スペイン生成の起点となったカトリック両王によるカスティリャとアラゴン連合王国の結びつきも前述の伝統に則したものだった。しかし,ひとつの新しい現象として国王のカスティリャ滞在が長期化し,その他の領国における国王の不在がそれだけ恒常化する傾向が生まれた。これはハプスブルク朝時代に入ると一段と顕著になり,16世紀後半には宮廷がマドリードに定着したために決定的となった。その結果,副王の実質は伝統的な〈もうひとりの国王〉から地方行政組織の一成員へと変化し,これにともなって副王制によって従来もたらされてきた統一と自治の間の微妙な均衡が崩れていった。

 ハプスブルク朝下,アラゴン連合王国とそのイタリア領およびナバラはいずれも副王領をなしたが,スペイン継承戦争後はナバラ以外は廃止またはスペインの支配を離れる形で消滅した。一方,副王制はスペイン領インディアスにも敷衍(ふえん)され,ヌエバ・エスパニャ(1535),ペルー(1543),ヌエバ・グラナダ(1739),リオ・デ・ラ・プラタ(1776)の4副王領が植民地時代を通して存続した。
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副王制がインディアスに実質的に設置されたのは1535年である。メキシコアウディエンシアの専横と腐敗の報に接し,スペイン王室は国王の代理として,また,土着の君主の後継者としてインディアスを統べる,いわばカリスマ的な権力を有する官吏を派遣する必要を痛感し,1529年ヌエバ・エスパニャ初代副王としてメンドサAntonio de Mendozaを任命した(実際の統治期間は1535-50年)。16,17世紀を通じて,副王の大半はスペインの上流貴族の出身であったが,18世紀以降になると,ペルーのアマトManuel de Amat y Junyent(在任1761-76)やヒル・デ・タボアダFrancisco Gil de Taboada y Lemos(在任1790-96)のように,しばしば小貴族や中産階級の出で啓蒙精神の持主の中からも任命された。副王は歴代スペイン生れのスペイン人(ペニンスラール)が任命され,植民地史上100名余りの副王のうちクリオーリョ(クレオール)はわずか5名足らずであった。当初,任期は確定しておらず,メンドサはヌエバ・エスパニャ初代副王として15年間統治したのちペルー副王に任命されたし,ヌエバ・エスパニャ第2代副王ベラスコLuis de Velascoは1551年から他界する64年まで任務を遂行した。有名な副王の一人トレドFrancisco de Toledoは1569年から81年までペルーを統治した。1629年には副王の任期は3年と定められたが,この法は守られなかった。

 16,17世紀には二つの副王領しか存在しなかった。1535年に創設されたメキシコ市を主都とするヌエバ・エスパニャ副王領は現在の北アメリカの南部とメキシコ,それにパナマを除く中央アメリカ全域とアンティル諸島およびベネズエラの沿岸地方を含み,その領土内にはサント・ドミンゴ,メキシコ市,グアダラハラグアテマラのアウディエンシアがあった。いまひとつは1543年に設置されたペルー副王領で,パナマのほか,ベネズエラ沿岸地方を除く南アメリカ全域を包摂し,リマを主都とした。しかし,1717年にはボゴタを主都とするヌエバ・グラナダ副王領が設置された。数年後この副王領は廃止されたが,39年再び設けられ,ボゴタ,パナマ,それにキトのアウディエンシアを統轄した。76年,ブエノス・アイレスを首都とするリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設され,ブエノス・アイレスとチャルカスのアウディエンシアを従え,今日のアルゼンチン,パラグアイ,ウルグアイとボリビアを含んだ。ヌエバ・グラナダ副王領とラ・プラタ副王領の設置はそれぞれの地方の発展および,とくに後者は外国の触手からラ・プラタ川を防衛する必要に迫られた結果である。このように行政区分の最上位に当たる副王領は広大な地域を含んでいたので,当時の交通・通信手段では統治は困難を極めた。その結果,やがてもっと狭い行政単位,つまり総監領(カピタニア・ヘネラルcapitania general)と長官領(プレシデンシアpresidencia)が設置されることになる。

 副王は管轄区内で君主の直接の代表として最高権力を行使した。副王領主都に近接する地域内では行政と軍事の最高指揮官であり,教会支配にかかわる司法,財政その他世俗的事柄をも統轄した。とくに国庫収入の確保と増加の任務を帯び,世俗や教会関係を問わず,植民地の下級官吏の大半を任命した。また,原住民の福祉に関心を払い,週2日ないし3日,数時間原住民からの請願を審議検討する義務を負った。原住民にかかわる訴訟の第一審をも管轄した。当初は空位エンコミエンダの再割当てを行う権利を与えられていたが,その結果,スペイン人の間に不和対立が生じることになった。このように,副王は居住する地方の総督(ゴベルナドルgovernador),総監(カピタン・ヘネラルcapitan general)および首都にあるアウディエンシアの長官(プレシデンテpresidente)としてかなりの特権を掌握していたが,司法には直接関与することができず,他の地方の行政に対してももっぱら監視役を務めたにすぎない。すなわち,外見上権力は副王の手に集中していたが,その権力は理論的にも実際面でもかなりの制約を受けていた。それは,インディアス在住の高級官吏が国王やインディアス枢機会議に任命・罷免されたので副王を介さず直接スペインの中央権力と結びつくことができ,その結果副王が彼らに効果的な権力を行使できなかったこと,管轄区内の行政事務は副王の完全な統轄下にあったが,王室より発布される数多くの詳細な法令によって行政活動がかなり規制されていたこと,インディアス枢機会議からあらかじめ許可を得なければ,みずからの計画を実行したり地方政治を変更できなかったため,しだいに勅令を実施するだけの代理人的存在と化してしまったこと,および,事実上副王がアウディエンシアと権力を分担していたことなどに起因する。とくに副王同様,国王に直属し,法律上はインディアス枢機会議にのみ従属したアウディエンシアは暫定的な地域立法権を認められており,しばしば副王に敵対的な行為をとった。こうした状況は適切かつ有効的な植民地行政をしばしば阻害したが,それはインディアスにおけるスペイン帝国の統治に特徴的に見られる権力と責任との分離,および植民地官吏の主導性に対する王室の深い危惧に起因する当然の結果といえる。

 しかし,王室の中央集権化政策にもかかわらず,スペインとインディアスの地理的隔りや通信手段の未発達などが原因となり,インディアス枢機会議の権威が減少するにつれて副王の権力は増大し,王室の発布する法令に対し〈服すれど守らず〉という拒否権発動の例が多くみられるようになった。

 副王は私有財産を所有したり任地で結婚することを禁じられており,任期が完了するとすべての植民地官吏と同じように,レシデンシアresidenciaと呼ばれる一種の治績審問を受けた。これは,管轄区内に居住する者であればだれでも,前任の副王の行政によって不正を被った場合,それを訴えることのできる制度で,インディアス枢機会議がその訴訟を管轄し,判決を下した。さらに,任期満了時に,国王や後継者に副王領の状況に関する詳細な報告書と,任期中に起きた重要なできごとや任期中の政策の目録を提出する義務も負っていた。

 副王領の行政区画は直轄領のほかに総監領と長官領があり,だいたいこの区画ごとにアウディエンシアが置かれた。その下位に総督領(ゴベルナシオン)とか地方(プロビンシア)が位置し,さらにそれはコレヒミエントcorregimientoやアルカルディア・マヨールalcaldia mayorに細分され,最下部にカビルドもしくはアユンタミエントと称される市参事会統轄の町があった。もっとも18世紀後半,ブルボン朝支配下,とくに財政の効率化を目的としてインテンデンシア制intendenciaが導入された結果,コレヒミエントやアルカルディア・マヨールは廃止された。副王やアウディエンシアは植民国家スペインを直接代表するもので中央権力に直属しており,大都市やその近郊では絶大なる権勢を誇った。しかし,管轄領域が広大であったことや領域内の中心都市と地方都市間の往来に相当な日数がかかったことなどにより,副王の権力はすみずみまで徹底しえなかった。そのため,カビルドなどの地方自治体が重要な政治経済的役割を担うことになった。

 副王制は国王側から見れば成功した。300年間インディアスを統治した副王の大半は勤勉かつ有能,忠実かつ従順な人々で,わずかな例外を除くと,おしなべて君主に反旗をひるがえすことなく王室の政策を忠実に遂行した。とりわけ偉大な副王と評価されたのは,ヌエバ・エスパニャではメンドサ,ベラスコのほか,ブカレリAntonio María Bucarelli y Ursúa(在任1771-79)とレビヤヒヘド伯グエメス・パチェコ・デ・パディリャJuan Vicente Güemes Pacheco de Padilla(在任1789-94),ペルーではトレド,レモス伯フェルナンデス・デ・カストロPedro Antonio Fernández de Castro(在任1667-72),アマトである。しかし,イスパノアメリカ側に立つと,政治行政の一端となる固有の権限をもった司法権,立法権,行政権が三権分立という形ではなく,副王のみならずアウディエンシアによっても同時に行使された結果,独立以後,権力の分立という近代国家機構の基本的前提がなかなか定着しないという弊害をもたらした。
アウディエンシア →インディアス枢機会議 →ラテン・アメリカ[歴史]
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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