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高台院 こうだいいん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高台院
こうだいいん

[生]天文17(1548).尾張
[没]寛永1(1624).9.6. 京都
豊臣秀吉室。杉原氏。幼名,ねね。のち寧子,禰。浅野長勝の養女となって,14歳で秀吉に嫁し,天正 13 (1585) 年7月,秀吉が関白になるとともに北政所 (きたのまんどころ) となり,同 16年准三后,従一位。

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デジタル大辞泉の解説

こうだい‐いん〔カウダイヰン〕【高台院】

[1549~1624]豊臣秀吉の正妻。尾張の人。杉原定利の次女。名は、ねね。北政所(きたのまんどころ)とよばれ、准三后、従一位になり、秀吉死後、尼となって高台院と称した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高台院 こうだいいん

1548-1624 戦国-江戸時代前期,豊臣秀吉の妻。
天文(てんぶん)17年生まれ。杉原定利の娘。14歳で木下藤吉郎(秀吉)と結婚,夫の出世にしたがい従一位にのぼり,北政所(きたのまんどころ)と称される。秀吉の死後は出家して高台院と号し,徳川家康の助けで京都に高台寺をたて,晩年をおくった。寛永元年9月6日死去。77歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。幼名は禰々(ねね)。名は吉子,寧子。
【格言など】ともなひて眺めにあかじ深雪山(みゆきやま)かへるさ惜しき花の面影(「醍醐花見之和歌」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

高台院

没年:寛永1.9.6(1624.10.17)
生年:生年不詳
安土桃山時代,豊臣秀吉の正室。北政所。生年については天文10(1541)年説と17年,18年説があり,近年は18年説が有力である。名は寧子,吉子,愛称寧々またはおね。杉原定利の子として生まれ,のち,織田家足軽組頭浅野長勝の養女となる。木下藤吉郎(豊臣秀吉)と結婚し,天正1(1573)年には近江坂田,浅井,伊香3郡の大名の正室の地位を得ることになった。長浜城在城時代,主君織田信長から,「かみさまなりにおもおもしく」振る舞い,嫉妬をしないよう,うまく藤吉郎を扱うようにとの朱印状を得ている。この朱印状には,夫不在時には妻が家の重鎮であるという中世武士の「家」における妻の役割が示されている。城主の妻となったおねは,領内統治に対しても意見を述べ,内政を助けている。天正13年,秀吉が従一位関白となり藤原姓に改姓すると,「関白の女房」つまり「北政所」と称され,同16年には従一位に昇進した。以降,天皇家と豊臣家の折衝役を務めている。小田原攻めの際秀吉が側室淀殿を呼びよせたのは,淀殿の子鶴松の養育,内政の総覧など後事をすべておねに託そうとしたためであったと思われる。 しかし鶴松が死去し秀頼が生まれると,その養育は実母淀殿の手に帰し,秀吉―淀殿―秀頼ライン豊臣政権の中枢に位置づけられた。正室として妻妾のなかでは別格の高い地位を保っていたとはいえ,秀吉の死後,淀殿・秀頼母子が自己主張を強めたのは当然のなりゆきであった。おねは剃髪して後家尼としての姿を明確にする。慶長8(1603)年に高台院の院号を許され,10年には高台寺を建立。しかし後家尼役割(夫の菩提を弔うこと)のみに安住することは周囲が許さず,加藤清正,徳川家康ら反石田三成派の武将が参集し,秀頼・淀殿方と対立するに至った。後家役割が,高台院と淀殿という2つの人格に分掌されたことが豊臣家にとって悲劇の原因であったと考えられる。高台寺の豊公廟内に葬られる。<参考文献>『高台寺文書』『木下家譜』,渡辺世祐『豊太閤の私的生活』,桑田忠親桃山時代の女性』

(田端泰子)

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世界大百科事典 第2版の解説

こうだいいん【高台院】

1548‐1624(天文17‐寛永1)
豊臣秀吉の正室。自署名は禰(ね)。1585年(天正13)秀吉の関白就任で北政所と称され,88年の従一位叙位記に豊臣吉子と記され,1603年(慶長8)高台院の号を勅賜された。尾張の人杉原定利の次女。浅野長勝の養女となり,1561年(永禄4)14歳で秀吉と結婚。織田信長も賞賛したほどの才媛で婦徳に富み,秀吉の死後落飾し京都三本木に住み高台寺を開創して夫の冥福を祈った。法名は高台院湖月心公。【小島 広次】

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大辞林 第三版の解説

こうだいいん【高台院】

1548~1624) 豊臣秀吉の正妻。北政所きたのまんどころと称される。愛称ねね(おね)。杉原定利の娘で浅野長勝の養女。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高台院
こうだいいん

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世界大百科事典内の高台院の言及

【高台寺】より

…はじめ曹洞宗,のち臨済宗。豊臣秀吉の妻の北政所(きたのまんどころ)は秀吉の没後大坂から京都に移り,尼となって高台院と称した。この高台院が,秀吉の菩提を弔う所として,徳川家康の援助のもと1605年(慶長10)に開創したのが当寺である。…

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