高台院(読み)コウダイイン

関連語 小島 知行 待遇

改訂新版 世界大百科事典 「高台院」の意味・わかりやすい解説

高台院 (こうだいいん)
生没年:1548-1624(天文17-寛永1)

豊臣秀吉の正室。自署名は禰(ねね)。1585年(天正13)秀吉の関白就任で北政所と称され,88年の従一位叙位記に豊臣吉子と記され,1603年(慶長8)高台院の号を勅賜された。尾張の人杉原定利の次女。浅野長勝の養女となり,1561年(永禄4)14歳で秀吉と結婚。織田信長も賞賛したほどの才媛婦徳に富み,秀吉の死後落飾し京都三本木に住み高台寺を開創して夫の冥福を祈った。法名は高台院湖月心公。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高台院」の意味・わかりやすい解説

高台院
こうだいいん

[生]天文17(1548).尾張
[没]寛永1(1624).9.6. 京都
豊臣秀吉室。杉原氏幼名,ねね。のち寧子,禰。浅野長勝の養女となって,14歳で秀吉に嫁し,天正 13 (1585) 年7月,秀吉が関白になるとともに北政所 (きたのまんどころ) となり,同 16年准三后,従一位。秀吉没後,薙髪,京都三本木に隠棲。婦徳に富み,徳川家康の好遇もあって京都東山に高台寺が建立され,養老料1万 6000石が与えられた。法名,高台院湖月心公。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高台院」の解説

高台院 こうだいいん

1548-1624 戦国-江戸時代前期,豊臣秀吉の妻。
天文(てんぶん)17年生まれ。杉原定利の娘。14歳で木下藤吉郎(秀吉)と結婚,夫の出世にしたがい従一位にのぼり,北政所(きたのまんどころ)と称される。秀吉の死後は出家して高台院と号し,徳川家康の助けで京都に高台寺をたて,晩年をおくった。寛永元年9月6日死去。77歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。幼名は禰々(ねね)。名は吉子,寧子。
格言など】ともなひて眺めにあかじ深雪山(みゆきやま)かへるさ惜しき花の面影(「醍醐花見之和歌」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高台院」の解説

高台院
こうだいいん

1549~1624.9.6

北政所(きたのまんどころ)とも。豊臣秀吉の正室。杉原定利の女。名はお禰(ね)・寧子・吉子。1561年(永禄4)浅野長勝の養女として木下藤吉郎(のちの秀吉)と結婚。85年(天正13)秀吉の関白任官にともない従三位,88年従一位に叙任され,准三后(じゅさんごう)となる。秀吉没後,落飾して京都に隠棲し,東山に高台寺を建立。徳川氏から河内国内に1万3000石余の知行をうけ,豊臣氏滅亡後も待遇は変わらず,高台寺で晩年を送った。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高台院の言及

【高台寺】より

…はじめ曹洞宗,のち臨済宗。豊臣秀吉の妻の北政所(きたのまんどころ)は秀吉の没後大坂から京都に移り,尼となって高台院と称した。この高台院が,秀吉の菩提を弔う所として,徳川家康の援助のもと1605年(慶長10)に開創したのが当寺である。…

※「高台院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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