日本歴史地名大系 「木之内村」の解説 木之内村きのうちむら 千葉県:香取郡小見川町木之内村[現在地名]小見川町木内(きのうち)上小堀(かみこぼり)村の南に位置する。「和名抄」に記載される海上(うなかみ)郡城上(きのうち)郷の遺称地とされ、白鳳期の山田寺式の瓦を出土した木之内廃寺がある。古代・中世には木内郷または木内庄とよばれた。天正一九年(一五九一)一一月日の木内大明神宛の寄進状(木内神社文書)に木内郷とみえ、同郷内で七石が寄進されている。同年六月二六日の「香取郡木内庄木内郷」の検地帳(木内家文書)では高四五八石余、反別は五三町八反余(うち田三九町余・畑一四町余・屋敷七反余)、名請人一四〇(うち入作四九)、屋敷持七。 木之内村きのうちむら 山形県:酒田市旧荒瀬郷地区木之内村[現在地名]酒田市城輪(きのわ)宮形(みやがた)村の西、城輪柵(きのわのさく)遺跡外郭の西側に位置する。地内を新田目(あらため)堰が西流する。木内村とも記した。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高三九四石余と三一石余。寛永元年庄内高辻帳の高五〇五石余。正保郷帳によると田方四六七石余・畑方三八石余。寛文三年(一六六三)当村など七村は越橋(こえばし)谷地九町三反余に草刈願を出し許された(大泉紀年)。貞享四年(一六八七)の草刈地鷹尾(たかお)山山札を二三枚所有しており、米四斗六升を納めた(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)。享和三年(一八〇三)の家数二七・人数一二三(「村数家数人高控帳」斎藤文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by