木内村(読み)きなしむら

日本歴史地名大系 「木内村」の解説

木内村
きなしむら

[現在地名]豊岡市木内

江本えもと村の東方、気多けた八社宮はさみ村を挟んだ三開みひらき山の西麓に立地し、円山まるやま川の支流六方ろつぽう川が流れる。木梨とも記した(寛永一六年知高帳)。江戸時代の領主変遷は享保一一年(一七二六)までは立野たちの村に同じ。同年一部が幕府領となり(同二〇年「城崎郡新料村々年貢軽減歎願書」秦文書)、文化二年(一八〇五)まで豊岡藩領・幕府領の相給。同三年一村幕府領となる(「但馬国両代官所支配村々高帳」出石神社蔵)正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に「木内」とみえ、高五一八石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。天明八年(一七八八)城崎郡明細記(河本家文書)では豊岡藩領分の高三八四石余、小物成計米九斗余・桑役銀八九匁余、家数三一・人数一二九、鎮守大篠岡おおしのか村の八熊やくま大明神(現穴目杵神社)

木内村
きのうちむら

[現在地名]宇佐市木内

伊呂波いろは川の中流域にある村。東は山地を隔てて山本やまもと村、西も山地を隔てて赤尾あかお村。近世の領主の変遷は四日市村に同じ。小倉藩元和人畜改帳には木ノ内村とあり、高二九三石余、人数四三、百姓五(うち小庄屋二)・名子二・牢人一・寺一、牛四。弘化五年(一八四八)の村明細帳(山口家文書)では高二八七石余・反別一七町二反余(うち新田畑四反ほど)、用水井堰は三ヵ所で、田地の七割が井堰掛り。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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