木原庄(読み)きのはらのしよう

日本歴史地名大系 「木原庄」の解説

木原庄
きのはらのしよう

永暦(一一六〇―六一)頃の大和国木原庄注進状(京都大学蔵「兵範記」仁安三年正月巻裏文書)に「大和国宇智郡字木原庄田数十九町畠二町」とみえる。領主等未詳。その後三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「六十六木原庄大乗院寄、宇智郡」とみえ、室町期には興福寺大乗院領となっている。

「大乗院雑事記」文明四年(一四七二)八月六日条には「宇智郡之内木原庄事、被致奉行可有御直務之由、仰付東北院大僧正了、此庄事先年郡再興之時ハ、両度共ニ故光宣法印ニ仰付了、今聞千疋分ニ牧野請之云々、然而近日自一乗院上使方年貢催促云々、牧野方より以玄深寺主伺申、此条驚入了、給主職事未定故也、(中略)同此庄事も東北院ニ仰付之者也」とみえる。


木原庄
きはらのしよう

興福寺一乗院領荘園。応永六年(一三九九)の興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)の十市郡に「一乗院方 木原三町」とある。ほかに同寺寺務領もあった。天文一九年(一五五〇)の「若宮祭礼并十二大会料所十市郷、進官庄々事」(京都大学蔵一乗院文書)には「納所会所目代方」として「木原庄一石十六合、去年且百文上 同庄小目代宗舜方分、一石十六合、去年且二斗五升」と記され、興福寺三目代のうちの会所目代のもとの小目代宗舜の得分となっていた。これらの所在は現木原町と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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